今イタリアで働いている、多摩美卒の中村さんが年末に日本に戻ってきていて、わざわざ昨日奥田染工に顔出してくれた。
何が言いたいかというと
くれたチョコがうまかった。
これはひろ君の気に入りすぎる味だわ。
うみゃい!!
最高じゃ。
さんきゅーーーーーーー。
メモメモ


http://www.guidogobino.it/

チョコには関係ないけれど、いろいろ話した。
楽しい情報交換がとてもたくさん出来た。
おいらも外国行きたい~~。

その中で、
歴史的に見ても、テキスタイル技術の中で日本の染色技術って世界でもまれに見る高さだよなと言う話になった。
外国行ってよりそれを強く感じたらしい。そこんとこ強く言いたいと言っていた。
東南アジアの染めもヨーロッパのそれも洗うと平気で色落ちるとかだもんな。
四季のある日本、梅雨があって湿気が強い日本ではよく服を洗う。
だいたい日本の長い歴史で考えれば立体物より、着物のデザイン、漫画だってそうだけど、平面上の構成が日本人は得意でうまいんだよな。
3Dのアニメーションなら、やっぱりアメリカ人にやらしといた方がうまいと思うし。

つくづく、平面上でその色で見せる、日本の染めの歴史は本当に深い。
ちゃんと発色させるとか、色落ちさせないとか、そういう技術的基盤がしっかりしている、使う材料へのしっかりした知識的基盤もそう。
そこからちゃんと始まっているところがいい。
当たり前に触れている物の価値は確かに先人が築いてきた物だ。

適当に染料ぶっかけるかどうかにしたって、そこから始まっているかどうかは重要だと思うんだ。

逆にそこまでの精度を育てた半面、仕上がりの検査としては、無知な人が関わるほどに神経質過ぎる部分が昔からあって、それが出来上がる物をつまらなくしてきたという歴史がある。無駄な非効率性も沢山産むしね。何が大事かというのは本当に大切な視点だ。
輸入されてくる物には緩いなんつう間抜けな話もあるわけだけど。
柄とか普通にずれているものな。
そういう意味では、緩やかな感覚で、良いか悪いかを見る西欧の良さみたいな物も学ぶべきだと思うんだ。
日本人はその良いか悪いかの視点を、ふわふわとした物ではなくて、他人であってもいいし、マニュアル的な物でも良いから、確実に動かないものにすがろうとしすぎるんだ。
他人や何かのせいにしたいんだな。誰々がいいと言っているからとか、それはルールだからとかね。
それに曖昧で適切な判断に比べれば、極端な結論というのも楽な判断のひとつだしね。楽な分、共有しやすいしさ。
ただ、それは最善からはほど遠いからね。

そういった日本と西欧と、一見相反する、両方の良さや、精度は普通に両立できると思うんだ。
適切な場所に意識を集めて良い物を作ると言うことなのだから。
やっぱり、ハッピーじゃなきゃ行けないよ。

更に話が逸れるけど…
テキスタイルデザインの世界だと、工業的な部分とアート的な部分が確かに存在するんだけど。
技術的な基盤を無視したアートってほんとにアートなのか。
自分が使う道具や素材や材料に不勉強でもアートって言っていいのか。
自分がわからないことや、出来ないことをそのまま放置して、無意識的にでも、知らなくていいことにして物を作るというのは、プロ意識ではない気がして仕方がない。
テキスタイルの世界にいると、作品の善し悪しは別としても、それを強く感じさせられる機会は多い。非常に考えさせられる。
ただ、せっかくこんないい環境にあるなら勉強して損なことはない。
技術的知識に関して言えば、どんな分野にしろ、
何ヶ月も掛けて技術をいちいち1から開発しなくても、誰か先人がどれもこれも、基盤を作っておいてくれている。
時に、それを利用させて貰えるんだ。

その価値や重みさえわかってない人だって本当に沢山いるわけだけど。
そんな人が偉い立場だったりすると本当に嘆かわしいもの。
そこらへんは日常の意識が試されていると思う。
何かへのしっかりした感謝や敬意が足りない時は、自らそれをやってみるのがいい。
必ず身に染みて、その重みが響く。
本当の意味で、知るというのはそう言うことかも知れない。
そして、技術はその価値を知るものに本当の価値を与えるだろう。
そしてそれは、いつだって忘れがちになる。自分だって、それを忘れちゃ行けない。
じゃないと、全部軽くなってしまうではないか。

そして逆に、自分はこういった場所にいるわけだから、もっと自分の足元を揺るがすようなことに触れなければ行けないだろう。
固い地面の上に立って、そこを守りながら人にものを言うなら誰だって出来るんだ。
そしてその、人の盲目さが問題なのだろう。

まあ、自由なんだよ。方法論はたくさんある。
だから、最後は自分の責任で好きにやればいいわけだ。
いいものはたしかにいい。
本当の説得力はそこだわな。

誰かがいいと言っていたからじゃなくてね。
チョコレートを食べて、誰かがいいと言っていたって、まずい物はまずいだろうに。
良いか悪いか、静かに静かに、生きている自分を利用していこうよってさ。

ってことで、確かチョコがうまかったので、もう一回確認してくる。

 

One thought on “チョコレートのおいしさと染色について思うこと:ゆるゆるnotes

  1. 佐々木 より:

    はじめまして。
    奥田さんのブログに出会い、新しい記事から順々に読ませて頂いています。

    現在、女単身インドに渡り、木版染めと民族衣装作りを勉強しています。
    日本で生まれ育ち、日本の常識の中で育った私としては、布作りの際の「ずれもにじみも味のうち」というインドスタイルに驚き、さらに型紙なんて参考程度にしか使わない縫製にも愕然としました。
    愕然としすぎて笑いがこみ上げて来ましたが、その「いい加減さ」は悪い側面ばかりではなく、インド人の発想の自由さを育てている気もしました。特に、色遣いなど勉強になりました。
    また、その一方、完全なる分業がなされているため、デザイナーを志す学生たちは素材の知識はまるでありません。授業で縫う作品も近所のテイラーに縫わせているのです・・・

    留学は残りわずかとなりましたが、インドのいいところを日本に持ち帰り、日本のいいところと掛け合わせて、ゆっくり自分のものにしていけたらなと思っています。

    末筆ながら、奥田さんのものづくりに対する想いに強く共感しています。私も同じ想いでものづくりをしていきたいです。

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