アーカイブ ‘ 2012年 1月

続染色について思うこと 人を動かすということと豊かさについて:ゆるゆるnotes

織物の八王子

数年前の講演で、中国に行かれている人が言っていた。
中国の工場では日本のファッションの仕事はうるさくてお金も安いので嫌われるが、少しだけ残すという。
なぜそうするかというと、日本人は細かいからその要求に応えていると技術が上がる。だから少しだけ残す。
その上でヨーロッパの仕事をするのである。
日本の仕事はうるさい上に、お金も少ししかくれない。
ヨーロッパはうるさくないし、お金もしっかりくれる。
そうしたら誰だって、日本の仕事なんかするのは嫌だが、技術の上がる面があるからそこだけ残すのである。
先日のチョコレートと染色の話でも触れたが、そういう意味では、ある意味ちゃんと工場の中で両方のいいところを取っている。

逆に言うと、国内の中にも当然その要素はある、うるさくてお金にならない人の仕事なんて言うのは、もしうるさくなくて、お金をちゃんとくれる仕事が現れた時、間違いなく相手にされなくなる。
うるさくて、お金にならないというのは、一方的な権利の要求になるから当たり前である。
そんなことがわかっていなくて、やって貰える場所を失っていく人は有名無名問わず、確かにいるのは昔から変わらない。
そして加工屋がみるみる減っていく今に至ってはそれは非常に重要な事である。

それなら、どう自分の仕事をして貰うのか。
それには戦略がいる。ましてや、資本のない、個人レベルのブランドを立ち上げましたなんて言う人にとっては一番重要なことである。
松下幸之助は、「お金を出すのがいやだったら、頭を十ぺん下げる。そんなことはいやだと、お金も出さない、頭も下げないというのでは、成功しない」と言った。
相手に何を提示すべきかを考えられない人は、人を動かすことが出来ない。
何かをしよう、そのために多くの人に動いて貰わなければ行けない、それならどうしたら人が動いてくれるかぐらいは考えておくべきである。
そして本当に動いて貰うためには、嫌々ではなく喜びながら動いてくれたら、それが一番の成果を生むはずである。
それを考えるべきなのだ。あなたは買ってくれる人だけではなく、関わるすべての人に喜びを与えながら進むことが出来るのである。
関わる人達すべてを感動させることさえ出来るのだ。
そういう、デザイナーは確かにいる。
そういう人のデザインには嘘がない。デザインがその力を持って、現実の行為の中でも確かに実行されているからだ。
ハッピーなデザインだといいながら、周りの人さえハッピーに出来ていない嘘つきなんて言うのは意外と良くある話ではある。その言葉はあまりにも軽い。

地震のあった後、日本を支援したいから、日本独自の染めで作りたいから安くやってくれるところを紹介してくれと言う。それを外国で売って日本の支援としたいという。売り上げの一部を寄付するという。でも、ボランティアなのでどうにか安くやりたいという。
どうにか無理して安くやりたいと言う時点で、まったく日本の支援にはならないと言うことがわかっていない。
あれはただ、自分のデザインを綺麗事で売りたいだけだなと自分は感じた。
相手のことを思うなら、当たり前の物、相手が続けていける、生活していけるだけの物を提示するのが当たり前だからである。
儲けさせられたら一人前である。
ましてや作るための資本があるなら、はじめからそのお金を募金してしまえばいい。
自分は綺麗事を利用して、自分の為に行動する人が一番嫌いなのである。

日本の工場は、実際明日ご飯が食べられないほどに疲弊している。
それに更に甘えて、齧り付いてどうする。

先日、またみんなを連れて注染屋さんの見学に行った。
先日の台風で屋根が吹き飛んだという。
トタン屋根の一部が抜けて、工場には青空が差し込んでいる。
「みんなには直せって言われるんだけど、悔しいから絶対直さない」という。
「いつやめてもいいんだってんじゃなきゃ、やっていられない」
そこの工場は、早くに旦那さんが亡くなって、やめようとも思ったけど、続けている。
なんて話を聞いた気がするが、定かではない。
その工場に行くと熱意のある話をいつも話しを聞かせてくれる。
若い人も雇ってどうにか続けようとしている。
今の時代、技術者の高齢化の中にあって、技術の継承はもっとも切実な現実である。

ちょうど僕はいま浴衣をやっている。
何か注染の技術をちゃんと理解して作られた物を作りたい。
注染なんて言うと、例えば傷は出やすい技法だし、堅牢度の良くない染めもある。
それが注染であるが、それを分かっていない人は多い。
注染の知り合いは何人かいるから、同じような話を良く聞くことになる。
その価値はわからなくても文句を言うのが得意な人というのはいる。
欠点を消すことは長所を消す恐れがあると言うことに慎重でなければ行けない。
人が大切にしているものに口を出すなら、何事にも敬意というのは必要なのである。
だからプロ面の素人は嫌われる。
それなら、いま一番、染色堅牢度と取り扱いで嫌われている染料でも使おうかと僕は思っている。
それにはその味が確かにあるからである。その味を生かすことがテキスタイルデザインである。

堅牢度は悪いが、ただ取り扱いに注意すればいいだけである。
物を大切に、丁寧に扱うことは悪いことではない。
誰にも簡単にが、本当に大切な物をたくさん取りこぼしてきたのがいまの日本だと、僕はずっと思っている。
手間を掛ける、面倒を見る。それによって生まれる豊かさは極めて強固である。
それは消費ではなく、循環によって成り立つ豊かさだからである。
それをわびさびと言い、粋と言った。
日本人はいったい何を追いかけ続けていたのだろう。
いや、人というのは目先の欲に弱い生き物なのかも知れない。
千と千尋の神隠しの両親のように、日本人はいまみんな欲に溺れた豚なんだ。

浴衣と言えば、やはり注染である。
僕は浴衣をやりたいから、いくらぐらいで出来るかと聞いて、あまりに安いんでびっくりした。
職人さんの動きを見ている。時間でどれ位生産出来ているかを見ている。
これでも、社長のはしくれなので計算してみる。
それなら、屋根を直したくなんてならないかも知れない。

昔だったら、凄いロットあった仕事も数が減って、最低ロットさえも減って、加工賃は変わらない。それが現実である。
ましてや、おそらくうちがそうであるように、材料費は上がっているはずである。
うちなんかには比べられないぐらい、注染というのは材料を使う。
ロットの減少、細かい仕事の繰り返しでは、まったく仕上がりが進まない。
それは驚くほどに仕上がる量が変わるが同じ加工賃なら割に合うわけもない。

うちの工場も、10年以上前バブルがはじけて間もない頃、某有名ブランドのTシャツやトレーナーのプリントをやっていた。
20歳そこそこの僕はうちの仕事はなんて仕事なんだと思った。
5人で1日やって、光熱費も材料費も、場所代も入れて、5万円にしかならないのである。
借金だって返さなきゃ行けない。親父には長男として支えなければ行けないことも腐るほどあった。
そのころ、いま有名な某大手SPAが中国に出している仕事を、中国と同じ加工賃でやっている日本のプリント工場の話を聞いた。それでも工場を動かしていた方がマシだったのかも知れない。いま、その工場がどうなっているかを僕は知らない。

手ぬぐいがそれぐらいで売られていて、原価がそれぐらい、極めて商売として現実的かも知れないが、工場としてはまったく現実的ではない。
ましてや、B品も全部平気で返してくるところも多いようである。
染めなんか汚しているような物なんだから、ケチを付ければきりがない。

工場がなくなっていくというのはそう言うことである。

はっきりしていることは、なくなった後に騒いでももう遅いと言うことだけだ。
歯を食いしばりながら、それでも何か大切な物のために続けている技術者は非常に多い。
この世界ではみんな、自分自身が自分が最後の砦だと分かっているからである。

丹後ちりめんの産地である丹後市での自殺者数が全国的に見てもかなり多いという報道がされていたのはいつのことだったろうか。
夫婦でやっている機屋さんの月の給料がびっくりするぐらい安かった。
僕の知っている現実なんかより更に厳しい実態がそこにはある。
八王子だって、同業者で自殺した人を何人か知っている。当然そこには生命保険が掛かっている。

金儲けが商売なのだから、金儲けできないのは偉い商売じゃないと偉そうに言う人がいる。金を儲けられるほど偉くて、社会で成功している人だという。こういう人達のことを知っていると、僕はそういう人の話が本当に腹が立つ。
そういう人達は、本当の意味での社会的な役目や、もしかしたら、守らなければ行けない何かを持ったことのない人達かも知れない。

ましてや、人の一生に優劣を付けるなんて今時流行らない。
もしそれでも、優劣を付けるなら、つまらない価値基準で生きている人は役立たずである。
人の一生の重みをまったく分かっていない。

八王子の駅前には織物町の石像があったがもはやない、機屋さんはいっぱい減って、他の職種になっていった。土地を持っている人も多かったから不動産屋さんになった人も多い。
いま残るのは、なにがしかの理由でやめられなかった人達である。
その理由を僕は知らない。
戦後の繊維産業の好景気で、儲かった時代があり、起業した企業がたくさんあったというのも事実である。
関係のない話だが、数年前、引っ越さなければ行けなくなって庭にあったお稲荷さんを神社に頼んで、撤去しなければ行けなくなった。僕は昔は体が弱くてそれで建てられた物だ。
神社の話だと、バブル崩壊してすぐは、八王子の機屋さんにあったお稲荷さんを本当にたくさん撤去したと言っていた。

浴衣なら、和裁である。一着作るのに1日か2日掛かる。
洋裁だって変わらない。買いたたくことしかない人にはそれが分からない。
縫製を仲介して貰う為に、この前業者さんと話した。
そんな値段でその枚数やっていくらになるんだよ。どれも割に合わないんだから値切るどころかちゃんと払わなきゃだめだろという話になった。やはり、賃金が安ければ、次の担い手は現れない。安くやって貰えた、ラッキーだという奴はだからアホだと言いたいのだ。

お金は愛情と変わらない。
というと勘違いする人がいるかも知れない。
みんなで値切り合う世の中より、少しでも多く渡しあう世の中の方が豊かだと思う。
いや、それに相応しいだけでいいのである。
愛情や優しさと何も変わらない。
社会を豊かにするとはそういう精神の問題だろう。
なぜ、お金を払うのか。
少しでも、他人から豊かさを奪うためだと思うなら、値切ればいい。もしくは奪われすぎないためにと思うなら、やはり値切るべきだ。
ただ、人から何かを譲って貰えることに心から感謝をして払うんだと思ったら、値切るなんてくだらないことはない。自分が払いたいだけちゃんと払えばいいのである。
どちらが正しいとは言わない。状況によって変わるからである。
でも、どちらもあると言うことは忘れない方がいい。
値切ることばかりはやし立てられていて正しい事のように思って、人に感謝をして払うと言うことを忘れがちな世の中だからである。

奪い合う世の中より、与え合う世の中の方が豊かなのは明らかだろう。
文化的な成熟度というのはそういう物のことを言うのである。

一度、オリジナルの服を作るので、縫製屋さんに頼んだことがある。
すごく少ない量だったから、ただ迷惑を掛けに行ったのだ。
それでいくらぐらいだと聞いたら、昔だと1500円ぐらいだったけど、いまなら1000円ぐらいだなと話されていた。
正直言って、数も少ないし、知識のない人間にさんざん付き合ってくれて、いくら貰おうと割に合わないに違いない。自分も工場をやっているし、自分の親父がまさしく金にならないことの相手ばかり平気でする人だったから、それがよく分かる。
昔から、仕事がうまくて有名な縫製屋さんだった。いま、縮小されて、個人でやるばかりである。好きだから、やめないという感じである。
だから、僕の遊びに付き合ってくれたに違いない。
素敵な時間と知識をたくさんくれた。
くれたのはそれだけじゃなくて、余っているニットの生地あるからとその縫製用に高い生地まで無料でくれた。
1000円と言われて、ラッキーと思えたら、まるで苦労した両親への否定である。
だから、それなら、昔の相場で払うと言った。
それでもまだ、払い足りなかった気がする。
でも、僕はそういう姿勢は凄く大切だと信じている。

だから注染屋さんの値段を聞いた時僕は、思わずその2倍、いや5倍は払えると呑気なことを言ってしまった。さすがにちょっと言い過ぎたかも知れない。
いくらで売るんだそれ。
僕はいま、怒られそうで、相方に言えないでいる。
無責任にいい顔をしてしまうのは親父の血であるから、僕のせいではない。

相手にちゃんと多く払えよと、こういうことを言うと、私だって大変なんですと怒る人がいる。
自分がやりたいことをはじめようとしているんだろう。
それにいろいろな人を巻き込もうとしているんだろう。
それが嫌なら、100円shopで買い物をしていればいい。
それなら確実に、満足する物、出来上がった物を安く手に入れられるだろう。
自分も儲けなきゃ行けない。それは当たり前である。その先の話をしているのである。

自分の身の心配しかできない人はたいがい消えていく。
誰もそんな人のためには動かないからである。
残っても大した仕事にはならない。大した仕事になっても裏で悪い話がもっと広がるだけである。やはりなにがしかの形で続かなくなる。
ましてや、企画当事者に時々いるが、まるで当事者意識がなく、他人事になる人も多い。
自分が渦の中心であることを忘れたら、渦は回ることさえ出来ない。
今はこの世界は業者数もすごく少なくなっているから、昔のように渡り鳥のように、業者を変えていくには限界がある。
例えば八王子でも、減ったとはいえ、うちと同業者のプリント屋さんはかなりある。
それを渡っていくだけでも、かなり数が稼げそうだが、残念ながら、悪い噂というのは簡単に広がるからそうはいかない。
昔は善人過ぎると、飲み込まれて続けられなかった。いい人は確かにいなくなった。
自分は昔のことは知らない。ただ聞くだけである。
しかし今は、悪い人はやり続けることが出来ない。それは前述の通りである。
そういう意味では、善人であり、戦略家でなければ行けない。
今の時代を、オリジナルのブランドを立ち上げて飯を食べていくというのは、そういう意味では非常に難しい時代であるといっても過言ではない。
ただ、余計な物はない。簡単な物はない。
そういう意味ではただの消費ではない方向に向かういい時代かも知れない。
大変だというのは確かであるが、いつの時代もその時代なりに大変なものだし、
少なからず、今の時代を生きているのだから、過去と未来を語っても生きるのは今である。

先日、夜中に某ブランドから電話が鳴った。こんな時間に電話だなんて、何かおいらまたやっちゃったかな怒られるかなとビクビク思って、電話を取った。
なんてことはない電話だったが、夜だって言うのに騒がしい事務所。話し相手のその奥から、何か陽気に叫ぶ声が聞こえる。
良く聞こえないんで、後ろで何か言ってるの? と、心の中のビクビクを残しながら聞いたら、
「ひろくん、一緒に儲けようっっ!! って言ってます」と言う。
僕は親父のお陰で素敵な人達と仕事が出来ている。

なぜこの仕事を僕が続けているかと言われたら、親や祖父母や、その親や親が続けてきたことを僕がやめてしまったら、それで全部消えてしまうからである。
そこには積み重なったたくさんの想いがある。
子供の頃僕の遊び場だったあの場所。
あの場所は消えてしまうにはあまりに惜しい。
だからこうして続けていられることが、いくつかの代償があろうと、僕にとっては確かな豊かさなのである。

そしてこうして続けることが出来ているのは、掛け替えのない大切なたくさんの先人と仲間のお陰である。


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努力という言葉のワナに思うこと:ゆるゆるnotes

先日、ハーバード大学図書館、朝4時の風景というある種のネタが出回っていた。
ハーバードの図書館には20の教訓があるってな話で、
20種のとにかく努力しろという内容である。
ハーバード大学図書館が公式に否定するぐらいだから、よっぽどである。
本文は以下のリンクにある。

http://product-empresario.blogspot.com/2012/01/blog-post.html

だいたいにして、無理をするって言うのはあれは長続きしない。
最高に成果を上げるには、どう日常化するかと、どうそれを本気で楽しむか。ワクワクするか。魅力的にしていくかだ。そのための苦痛と無理なら必要だと思う。楽しむようにするための努力である。
中国のデマらしいが、今の中国の現実の一側面かもしれない。受験生ともなれば誰しも遭遇する焦るべき事態かも知れない。
とにかく焦りを感じる20の教訓である。
養老孟司氏が昔、本の中で触れていたが、論語に「これを楽しむにしかず」と言う言葉がある。
努力しようとすれば辛いことも、
「好きこそ物の上手なれ」でそれを好きな人には敵わない。
そして好きな人をもってしても、それを楽しむ人には及ばない。

つまり、1分1秒を前向きな力でどう使うのか。
その手段を講じるべきである。努力しなければ行けないと言う考え方がすでに後ろ向きなのだ。
努力しようと言う考えだけでは、努力できない自分と戦うだけであり、前に進まない。あるのは努力しない自分に辟易とする自分だけである。
努力しようと言う人ほど、努力しない自分に辟易とする物だ。
なぜなら、努力しなければいけないと思いながら、努力していないからである。
努力していないとわかっているから、努力しようと奮い立たせようとするからだ。
しかし、その考えをいくらぐるぐると回っていても車輪の中を回るハムスターではないんだから解決するわけもない。
真面目な人ほど、その罠にはまり、現実から逃げ出すのだ。

重要な事は努力することではなく、どうそれを行うかである。
行うことが重要だと言うことを忘れてはいけない。
手段と目的は別である。
であるなら、行うためにどういう手段を講じればいいかを考えることである。
つらくてもやらなければ行けないことに遭遇した時、それをどう好きになり、その中から、どう楽しむべきものを見つけるのか。
そしてどう楽しんでいくか。である。

もしあなたがあなたにとって大切なことを、好きで、楽しんでやるようになれば、努力しなければ行けないと思っている人など、あなたに敵うわけもない。
その時間はあなたにとって非常に濃厚な物となり、放っておいても前進するようになるからだ。
これは努力への否定ではない。必要な時はしなければ行けない。
しかし、思うだけでしない努力ほど無駄な物はないと言っているのだ。
逆に言うと、努力というのは歯を食いしばっている時にこそ、奮い起こす物である。何もしていない時に努力しなくてはというのは、何もしない人間の口実である。
朝起きて勉強することが楽しみで仕方ないなら、放っておいても目を覚まし、勉強をはじめる物である。
だから、どんな環境におかれても楽しむ手段を探すべきだ。

それを探していない人というのはどんな仕事においても、大概やる気がない。
やる気も出さず、これは自分に相応しい環境ではないと言い訳をする。
どんなに自分の思惑と違う仕事であっても、楽しみというのは探し出せる物だし、
それが出来ないのであれば、考えが足りない。
考えが足りないのであるから、どんなことをやっても、それを嘆くだけになるし、その程度のことしかできない。
やる気を出し惜しみして手に入れるのは貴重な時間の損失だけである。
やる気のないその時間はあなたが持っている限りある命なのだ。何の節約にもなったりはしない。
せっかく与えられた環境や自分の今をただ無駄遣いするのではもったいない。

思い通りに行かないのが世の中であり、思い通りに行くと信じているのが子供である。どんなに才能がある子供だって、思い通りではない現実の前で、挫折し、前に進む手段を見失い、時に人生を過去の栄光に頼って、あるはずだった才能と共に消えていくのである。その時重要なのは、思い通りにならない実際の中でどうしていくかであろう。
そういった状況でこそ、試されるのだ。
思い通りではないと、チャンスを自ら握りつぶすなんて、自分が知っている世界がどれほどちっぽけか。そして、本当の世界がどれほど広いか。についての考えが足りない。
養老氏なら、思い通りに行くのが人が作った都市で、思い通りに行かないのが自然だという言い方をするかもしれない。
おびただしい、人工物に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住む。それを脳化社会だと言った。
自然と付き合うとまったく思い通りにはならない事を身をもって知ることになる。付き合って様子を見て、どうにかこうにかする。それを手入れと言った。自然に触れる価値はそれによって語られる。日本人は確かに自然と生きてきた。だから、自然と共に暮らす人ほど、どんな災害が起きても冷静で前向きだ。そして力強い。

自分は運良く昔はガーデニングが趣味だった上に、今となっては仕事で布作りをしている。
布は生き物だと言われる。言うことを聞いてくれないからである。
だからこそ、彼らは多くのことを自分に語りかけてくれる。
僕も彼らのことを真剣に見つめなければ行けない。
だからなおさら、考えが脳内にしかない人に敏感に違和感を感じてしまう。
ああすれば、こうなると信じている人達である。
そういう人は、書を捨てて町に出るぐらいなら、田んぼにでも行って稲を育てた方がいいかもしれない。
思い通りにはならないことを身をもって知るべきである。
そして思い通りにならないことを思い通りに無理矢理するのは美学ではない。ただの無理である。
無理は長くは続かない。ましてや、相手が自然なら彼らは生き生きとはしてくれないだろう。
思い通りにする以上に、その自然の持つ力を引き出すほうが優れた結果が生まれる。
目の前の自然が変わるのと同じだけ、自分も変わらなければ行けない。
自分が変わらないのに、相手だけ変えようなんて言うのはただの子供のわがままである。
そういう意味ではミントデザインズが布に対峙した時のハッピーミステイクという言葉が象徴するような考え方は合理的であり、
布という物を知っている人間の最善の姿勢である。
自分がすべてを知っているわけではないということをよく知っている。
結果に対して、自分が変わる準備が常に出来ているのである。
優れたデザインを部屋にこもって脳内だけで探し、決定する必要などまったくないのだ。
ましてや、出来上がってもいないのに、頭の中のそれを一番いい物だと考えるのはただの妄想である。
残念ながらそれでいい物を生み出せるほど、人は予言者たり得ない。
観察すべき世界をしっかり外側にも広げなければ、一番大切なものを見逃すことにしかならないだろう。
不必要な物に囚われて主観でしか物事が見えず、力点を外し客観的な広い視野を持てない人は足元に転がる宝をいつも見過ごしながら生きている。

思い通りになるように作られた都市にいると確かにそれを忘れる。
そして思い通りにならない事への文句ばかりが増える。
都市なら文句を言えば良くなるかもしれない。
でも、自然の中では文句を言っても良くはならない。
しかし、忘れがちであるが、自分というのは実は一番身近な自然なのである。

はじめから好きだと思っていることをやるのは、好きになって、楽しむ努力をしない分だけ、幾分か楽だというだけだ。
好きになるのはよっぽどでない限りどうにかなるというのは男性にさんざん追いかけられて、そうでもなかったのに好きになってしまい、結婚して幸せに過ごしている女性なら、よく知っているはずのことでもある。

今、嫌だなあと思いながら、何かに取り込んでいないか?
それがもし大切なことであるなら、
つらい中にあっても、何が好きなのか、ちゃんと楽しむべき所を楽しんで向き合っているのかについて、再度、自分に問い直すべきである。
そして、それが好きで、楽しんでいる人にはまったく勝てないと言うことだけは忘れない方がいい。

そして、もし、立ち止まってしまっているのなら、
過去の自分に勝てなくて悩んでいるのかもしれない。あの日から前に進めなくて悩んでいるのかもしれない。
気づかないうちに、あの日あった楽しさを見失っている。
まるではじめからそれがなかったかのように。
でも、気付きさえすれば、いつだってそれは取り戻すことが出来る。

若い頃僕は騙されて、ただ真面目に努力しなければと思えば、努力できると信じていた。
誰よりもやれると信じた。でも、その考えでは勝負の席にさえ立てないんだ。
いや、自分は努力していると言う人がいるかも知れない。どうしてもやらなければ行けない時、人はやる。つまり、努力しなければ行けない環境に置かれれば確かに人は努力するというのも確かな事実である。環境が目の前でやらなければ行けない状況を作れば、確かに環境に相応しくなるのである。
しかし、やはりそれは楽しむことには敵わない。
だから、苦難の中でこそ楽しむことを見つけるための努力をすべきだろう。
そして、躍動感のあるその生命力を精一杯生かし日々を過ごすべきである。

それはあははと笑いながら、楽して、楽な道を選んで生きろと言うのとはまったく別の話である。
むしろ道が分かれていたら、信念に背を向けずに、苦しい道を選べと言っている。
そして、その道を楽しめと言っている。
真剣に生きるが故に、様々な魅力について注意深くなければ行けないと言うことだ。

足りない考えに惑わされて、貴重な時間を失うには、若い時間はあまりにもとうとすぎる。
楽しさを見つけろ。楽しんで生きろ。楽しんで誰よりもそれを極めろ。
そしたら、誰もあなたには敵わない。
あなたはいま、自分の人生を精一杯楽しむことが出来るたった一度だけのチャンスに恵まれているのだ。
その一度だけのチャンスが、今確かに生きている、この五感に響く、限りある瞬間である。

という、長すぎた反論。


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チョコレートのおいしさと染色について思うこと:ゆるゆるnotes

今イタリアで働いている、多摩美卒の中村さんが年末に日本に戻ってきていて、わざわざ昨日奥田染工に顔出してくれた。
何が言いたいかというと
くれたチョコがうまかった。
これはひろ君の気に入りすぎる味だわ。
うみゃい!!
最高じゃ。
さんきゅーーーーーーー。
メモメモ


http://www.guidogobino.it/

チョコには関係ないけれど、いろいろ話した。
楽しい情報交換がとてもたくさん出来た。
おいらも外国行きたい~~。

その中で、
歴史的に見ても、テキスタイル技術の中で日本の染色技術って世界でもまれに見る高さだよなと言う話になった。
外国行ってよりそれを強く感じたらしい。そこんとこ強く言いたいと言っていた。
東南アジアの染めもヨーロッパのそれも洗うと平気で色落ちるとかだもんな。
四季のある日本、梅雨があって湿気が強い日本ではよく服を洗う。
だいたい日本の長い歴史で考えれば立体物より、着物のデザイン、漫画だってそうだけど、平面上の構成が日本人は得意でうまいんだよな。
3Dのアニメーションなら、やっぱりアメリカ人にやらしといた方がうまいと思うし。

つくづく、平面上でその色で見せる、日本の染めの歴史は本当に深い。
ちゃんと発色させるとか、色落ちさせないとか、そういう技術的基盤がしっかりしている、使う材料へのしっかりした知識的基盤もそう。
そこからちゃんと始まっているところがいい。
当たり前に触れている物の価値は確かに先人が築いてきた物だ。

適当に染料ぶっかけるかどうかにしたって、そこから始まっているかどうかは重要だと思うんだ。

逆にそこまでの精度を育てた半面、仕上がりの検査としては、無知な人が関わるほどに神経質過ぎる部分が昔からあって、それが出来上がる物をつまらなくしてきたという歴史がある。無駄な非効率性も沢山産むしね。何が大事かというのは本当に大切な視点だ。
輸入されてくる物には緩いなんつう間抜けな話もあるわけだけど。
柄とか普通にずれているものな。
そういう意味では、緩やかな感覚で、良いか悪いかを見る西欧の良さみたいな物も学ぶべきだと思うんだ。
日本人はその良いか悪いかの視点を、ふわふわとした物ではなくて、他人であってもいいし、マニュアル的な物でも良いから、確実に動かないものにすがろうとしすぎるんだ。
他人や何かのせいにしたいんだな。誰々がいいと言っているからとか、それはルールだからとかね。
それに曖昧で適切な判断に比べれば、極端な結論というのも楽な判断のひとつだしね。楽な分、共有しやすいしさ。
ただ、それは最善からはほど遠いからね。

そういった日本と西欧と、一見相反する、両方の良さや、精度は普通に両立できると思うんだ。
適切な場所に意識を集めて良い物を作ると言うことなのだから。
やっぱり、ハッピーじゃなきゃ行けないよ。

更に話が逸れるけど…
テキスタイルデザインの世界だと、工業的な部分とアート的な部分が確かに存在するんだけど。
技術的な基盤を無視したアートってほんとにアートなのか。
自分が使う道具や素材や材料に不勉強でもアートって言っていいのか。
自分がわからないことや、出来ないことをそのまま放置して、無意識的にでも、知らなくていいことにして物を作るというのは、プロ意識ではない気がして仕方がない。
テキスタイルの世界にいると、作品の善し悪しは別としても、それを強く感じさせられる機会は多い。非常に考えさせられる。
ただ、せっかくこんないい環境にあるなら勉強して損なことはない。
技術的知識に関して言えば、どんな分野にしろ、
何ヶ月も掛けて技術をいちいち1から開発しなくても、誰か先人がどれもこれも、基盤を作っておいてくれている。
時に、それを利用させて貰えるんだ。

その価値や重みさえわかってない人だって本当に沢山いるわけだけど。
そんな人が偉い立場だったりすると本当に嘆かわしいもの。
そこらへんは日常の意識が試されていると思う。
何かへのしっかりした感謝や敬意が足りない時は、自らそれをやってみるのがいい。
必ず身に染みて、その重みが響く。
本当の意味で、知るというのはそう言うことかも知れない。
そして、技術はその価値を知るものに本当の価値を与えるだろう。
そしてそれは、いつだって忘れがちになる。自分だって、それを忘れちゃ行けない。
じゃないと、全部軽くなってしまうではないか。

そして逆に、自分はこういった場所にいるわけだから、もっと自分の足元を揺るがすようなことに触れなければ行けないだろう。
固い地面の上に立って、そこを守りながら人にものを言うなら誰だって出来るんだ。
そしてその、人の盲目さが問題なのだろう。

まあ、自由なんだよ。方法論はたくさんある。
だから、最後は自分の責任で好きにやればいいわけだ。
いいものはたしかにいい。
本当の説得力はそこだわな。

誰かがいいと言っていたからじゃなくてね。
チョコレートを食べて、誰かがいいと言っていたって、まずい物はまずいだろうに。
良いか悪いか、静かに静かに、生きている自分を利用していこうよってさ。

ってことで、確かチョコがうまかったので、もう一回確認してくる。


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