最近ずっと、いろいろなデザイナーを連れて、全国の繊維産地をお邪魔している。
3泊4日のこともあるし、日帰りのこともあるし。
昨年末は岡山、倉敷、尾道、今治へと回ってきた。
今治のタオル、岡山から広島にかけては、ジーンズに帆布。その他にも様々な工場がある。
その前に時間をかけて行った時は、一宮と西脇、一宮はウール生地、西脇は先染めの綿織物の工場にお邪魔した。
その前は京都に丹後。新潟に富士吉田、花巻に浜松…
本当に様々な方にお世話になってきた。

そんな産地巡りをわざわざ1ヶ月、2ヶ月もかけてセッティングすることは、自分なりに大いなる目的があるのだけど、それを伝えるのは難しい。
とにかく自分が行きたい。
ひとりで行くというのも気が引けるので、みんなに声をかけて行くか行かないか聞く。
せっかく行くならなるべくまとめて行った方がいい。
見学なんて、相手先の仕事の邪魔になるのだし。
なぜそんなにみんなに声をかけるんだと言われるけれど、仕事の邪魔になるなら、なるべく1度で済ませたいという。
行きたい人がいるなら、一緒に行こうよって言う。
onomichi

ちなみにそんな様子を上げてくれている人もいるので一部。

secoriさん『尾州訪問』
http://tokyo-mbfashionweek.com/jp/curators/blog/6370/
大小さん 『今までで買った一番高い服ってどんなの?』
http://people.zozo.jp/taisyou/diary/4164835

足を運ぶと、そんなこんなで、会社内の人たちですか?
いったい、何の集まりですかと聞かれる。
それはそうだ、何の集団だか自分でも分からない。
東京だから素敵なデザイナーと出会うことが多いのでと言っても
工場に関わっていないデザイナーまで混ざっている。そもそもデザイナーだけでもないし。
じゃあ、大学の集まりですかとなる。
そういうのが仕事かと言ったら、僕は建物的にも経済的にも今すぐ潰れそうなおんぼろ弱小工場をどうにかこうにか維持している身でしかないわけで。

10年前、先代はうちの工場に若い人が来ると、他の工場を紹介して、ついでに他のプリント工場を紹介して、
自分はもうあまり仕事をする気はないので、全部に断られたらやるから言いなさいと言った。
そういうのいいなと背中を見ながら思った。
だから、僕の人との関わりにとって、そんな姿勢はとても大切なことのひとつだったりする。

それで先代は今度は、工場で仕事をするとなれば、本人たちが現場に来なければ絶対にやらないと言った。
工場からすれば、来られるのは面倒なのだけど、大切なことはたぶんそんなことではなかった。
はっきりと先代の経験としたら、現場を知って仕事することが、その経験や感覚がこれからブランドを立ち上げる若い人たちにとって非常に大事なこと。リアリティの無自覚な欠如が現代社会においての不幸だと言うことについて。物質的に満たされることの犠牲になっているかについて。知らないことは人をどれほど傲慢にするかについて。
逆に言えばその当時、特におざなりにされていた部分だという明確な意識があったのだと思う。
デザインと現場が離れて出来るものというのは非常に紙面的だし、精度が落ちる。
それで済めば済むという仕事になってしまいがちだ。
そこにモノづくりの魅力や本来の生命力があるかと言ったら、それはちょっと違う。
効率的な工業生産が、効率的であればいいのかといったら、その上で出来る次元がある。
多くの人は、商業的である事以外に大切な物を持っている。それはある種の危機感だ。
美しい仕事は整理と構築から育てられた合理性による。
構築された物の上に乗るだけでは、駄目なんだ。
世の中が進むなら、大切なはずなのに疎かにされている部分を整備する必要がある。
だから想像の不足が必要なのではなく、リアリティが必要なのだ。

見て、感じて、知る世界が物事の精度や質を上げる。
知らないことを知らないことには気付かないものだ。
それでいいでする仕事に前進はない。
知らない方がいいなどというのは、怠惰な人間が仕事をさぼる口実に過ぎない。
気付かない方がいいことなどない。気付いた上でどうするかが大事なのだ。
これがいいのだ、それなのに足りないんだという視点を捨てたら前に進まない。
留まろうとする、その一歩も二歩もその先に世界は広がっているのだ。
大切に思うものについて、見て見ぬふりをする方が楽だから、見えないふりをして、現状に留まる。
それでは、一生のうちで仕事という大きな時間をかける、役割の上に立つ意味がないと感じてしまう。
kurashiki

これからのものづくりを考えたとき、一番はじめにしたかったこと。
生まれ育ったこの世界を知ること。
そして身の回りにいるデザイナー達とともに、物作りの質を上げていくこと。
そしてそれが個々において非常に純粋な追求であり、ハッピーなものであって欲しいという願い。
惰性で仕事するのではなく、可能性に向き合うこと。
現状で何が出来ていて、何が出来ていないのか。そして、何をする必要があるのか。
この業界に身を置いた時、その視点を明確にしないでデザインや製品を生み出していることが、あまりに罪深いように感じてしまった。
テキスタイルデザインと言って、どれほどの物が本当にしっかりと生み出されているのか。
どれほどのものが可能性と戦っているだろうか。
肩書きだけの仕事では仕方がない。
謙虚さのないデザイナーの作る物は表面的な世界を脱することが出来ない。
なぜなら、この仕事において他人が関わらず生み出される物などないからだ。
分散した技術の粒子を形にするためには、その点が見えなければいけない。
その点がどれほど細かく明確に見えるか。
感覚を研ぎ澄ませ、見抜かなければいけないのだ。
布は生き物だという。
その幾重にも変わる表情を見抜いてはじめて、そこに必然性と生命が宿る。
存在の美しさとはそういう物ではないだろうか。

展示会で僕らはたくさんの並べられた布を見る。
そこだけを見て、どんな価値を知ることが、どんな価値に気づくことが出来るか。それはとっても難しい。
埋もれてしまうと言うのはそのことについてだ。
それでも、そこからいいものを見抜くという話はあくまで一面的な話だ。
生まれた場所を知り、その作り手を知り、その土地の空気を知る。
生まれてくることへのリアリティが、僕らのたいしたことのない目でも、その存在に対して焦点を合わさせてくれる。足を運んではっきりそのことを実感した。
そのものが持っているエネルギーを知れたら、自分のクリエーションに焦点が合った形で生かすことが出来る。
工場のある風景で育った僕にとって、それがとても大切なことなだけかも知れないけれど。
それでも、誰かがそこで生きているって、とっても好きなことなのよね。

4月の一宮から西脇への産地巡り。
あるブランドの10月の展示会を訪れたら、訪ねた道が、服になっていた。
あの場所で出会った布、次の場所で出会った布というように。
すごく忙しい人なのに、僕に付き合ってそのとき長い時間を空けてくれた。
一緒に回った時間の記憶をたどるようにそれは形になっていた。
そしてどれも、その布の欠点を消して、長所を生かすように作られている。
布が窮屈そうでもなく、疲れた顔でもなく、すっかり笑顔でそこに存在している。
セッティングししてよかった。なんて形で返してくれるんだろうと思った。

小さなはじまりが、いつか確かな形に結びついてくれるように。
結局はただ、工場見学しているだけなのだけども。
それでも、ちっぽけな自分は日本の物作りの魅力的な未来に憧れているのです。

そんなこんなで、久々にブログ更新していきます。
次のタイトルはきっとこの続き、「足を運んでみて」です。

 

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