ひとりの時間

ただの自分になりたい時というのはある。
社長であるとか、先生やってるとか、人に偉そうに言うとか、穏やかに言うとか、誰かに高く評価してもらえるとか、友達や彼女の前での自分とか。全部なんとなく決まっている。
そのなんとなく決まっている自分というのには当然どことなく息苦しさがあって。
昔に比べたら、なんにもない自分、ただの自分でいる時間がずいぶん短くなったなと思う。
もはや夢の中の憧れにさえなっているかもしれない。
そう、ふと気づいた。

いまあるのは、どれも立場さえなくなれば消えてしまう自分だ。
何もなくなった僕にどれほどの価値があるんだろう。

なにもいらなくて自分の時間だけあればいいと思っていた時期があった。
野望を持ちつつ、野望っていうのは持たなければいけないものなのかと反逆した。

僕はいま一人でいる時間を本当に大切にしているだろうか。

追われない時間。
決められていない時間。

何時何分にどこに行き、何時何分にどこに行く。
そうではないゆったりとした。
気分と時間だけの付き合い。
忙しなさの合間、いつぶりか、時間に追われもせず、すいているからと言う理由で、各駅停車の電車に揺られながらそんなことを考えた。
ああなんだろうこの久しぶりの感覚はと思った。

鞄のなかに読みたいのに放置してしまった本をたくさん詰め込んで、何を選ぶわけでもなく、田舎に向かう電車にでも乗って、いやどこに向かうかさえどうでもよくて、ただ揺られながら数日を過ごすような旅がいいなと思った。
それで遠くへ行こう。
ゆっくりと本を読む時間を持ちたい。
ゆっくりと考える時間がほしい。
ただひとりでゆっくりと揺られていられたらそれでいいんだ。
刺激を遮断した時間がほしい。
このままでは見失い、盲目になり、ただ狂ったように、自分ではないただ誰かに与えられた役だけを演じる役者として、滑稽に生きていくだけな気がする。
それがもしどんなに大きな役になろうとそれではあまりにもむなしい。

刺激的でもないし、興奮するようなことがあるわけでもなくて、欲望とも無関係に。
そのものへの視点が大切で。
一流の料理人が出す素材そのものをシンプルにいかす、ただそれだけのもの。それを感じる大切さ。
刺激に麻痺した感覚を休ませて、本来的なものの価値について再考したい。
当たり前で、謙虚な存在ほどに、本来は価値のあるものなのに、人はすぐにそれを忘れる。
必死に価値をアピールするようなものが果たしてどれ程のものか。

自分の行動を正当化するたびに、正しさは歪まれていく。

悪い習慣を減らして、よい習慣を増やしたい。
僕はいつも繰り返す。繰り返しを居心地よいと思い。
変化を嫌う。

何に追われているのだろう。
不器用に時間を浪費し続けている気がする。
僕は本当に大切な物に向き合っているだろうか。

自分の価値を他者に依存していないだろうか。
つまらない依存から自分を引き剥がして、
ただのひとりになりたい。

大好きな人がたくさんいるからこそ、もっとあの日のように一人でいる時間に慣れてもいいかもしれない。
いまの僕はとても孤独でいることに弱い。
心の上っ面を滑り続けて、深い場所に潜ることを億劫だと避けている。

そんなんじゃ駄目だから、ひとりの時間にも戻れる自分になりたい。
ただのひとりっていいと思うんだ。

「ひとりの時間」への1件のフィードバック

  1. はじめまして、まななです。
    とてもステキなお話ですね。^^
    私も『ひとりの時間』をこういう風に思って過ごしてみようと思います。
    そうすると、さらに人やモノとの関わりも今まで以上に良い感じになりそうですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA