アーカイブ ‘ 2013年 3月

ひとりの時間

ただの自分になりたい時というのはある。
社長であるとか、先生やってるとか、人に偉そうに言うとか、穏やかに言うとか、誰かに高く評価してもらえるとか、友達や彼女の前での自分とか。全部なんとなく決まっている。
そのなんとなく決まっている自分というのには当然どことなく息苦しさがあって。
昔に比べたら、なんにもない自分、ただの自分でいる時間がずいぶん短くなったなと思う。
もはや夢の中の憧れにさえなっているかもしれない。
そう、ふと気づいた。

いまあるのは、どれも立場さえなくなれば消えてしまう自分だ。
何もなくなった僕にどれほどの価値があるんだろう。

なにもいらなくて自分の時間だけあればいいと思っていた時期があった。
野望を持ちつつ、野望っていうのは持たなければいけないものなのかと反逆した。

僕はいま一人でいる時間を本当に大切にしているだろうか。

追われない時間。
決められていない時間。

何時何分にどこに行き、何時何分にどこに行く。
そうではないゆったりとした。
気分と時間だけの付き合い。
忙しなさの合間、いつぶりか、時間に追われもせず、すいているからと言う理由で、各駅停車の電車に揺られながらそんなことを考えた。
ああなんだろうこの久しぶりの感覚はと思った。

鞄のなかに読みたいのに放置してしまった本をたくさん詰め込んで、何を選ぶわけでもなく、田舎に向かう電車にでも乗って、いやどこに向かうかさえどうでもよくて、ただ揺られながら数日を過ごすような旅がいいなと思った。
それで遠くへ行こう。
ゆっくりと本を読む時間を持ちたい。
ゆっくりと考える時間がほしい。
ただひとりでゆっくりと揺られていられたらそれでいいんだ。
刺激を遮断した時間がほしい。
このままでは見失い、盲目になり、ただ狂ったように、自分ではないただ誰かに与えられた役だけを演じる役者として、滑稽に生きていくだけな気がする。
それがもしどんなに大きな役になろうとそれではあまりにもむなしい。

刺激的でもないし、興奮するようなことがあるわけでもなくて、欲望とも無関係に。
そのものへの視点が大切で。
一流の料理人が出す素材そのものをシンプルにいかす、ただそれだけのもの。それを感じる大切さ。
刺激に麻痺した感覚を休ませて、本来的なものの価値について再考したい。
当たり前で、謙虚な存在ほどに、本来は価値のあるものなのに、人はすぐにそれを忘れる。
必死に価値をアピールするようなものが果たしてどれ程のものか。

自分の行動を正当化するたびに、正しさは歪まれていく。

悪い習慣を減らして、よい習慣を増やしたい。
僕はいつも繰り返す。繰り返しを居心地よいと思い。
変化を嫌う。

何に追われているのだろう。
不器用に時間を浪費し続けている気がする。
僕は本当に大切な物に向き合っているだろうか。

自分の価値を他者に依存していないだろうか。
つまらない依存から自分を引き剥がして、
ただのひとりになりたい。

大好きな人がたくさんいるからこそ、もっとあの日のように一人でいる時間に慣れてもいいかもしれない。
いまの僕はとても孤独でいることに弱い。
心の上っ面を滑り続けて、深い場所に潜ることを億劫だと避けている。

そんなんじゃ駄目だから、ひとりの時間にも戻れる自分になりたい。
ただのひとりっていいと思うんだ。


『そこには今も新しい発見がある』2011年4月1日寄稿文

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 子供の頃から、僕にとってそれは当たり前の風景だった。増築を繰り返した工場の中はひどく入り組んでいて、僕は、その暗闇のどこかに知らない世界への扉があると信じていた。
 至る所から蒸気が噴き出し、その工場を構成する柱の一本一本が好き放題に傾いている。至る所が錆びていて、至る所がひび割れている。誰も入らない部屋があり、埃にまみれたスイッチの用途はもう誰も知らない。
 脱水機は激しく地面ごと引きはがすように回る。あの頃から脱水機はいつか空に飛んでしまいそうだったけど、今も一生懸命、地面に張り付いて、水を弾いている。
 分散染料の独特の臭いが幼い頃の記憶を呼び起こす。僕は友達と工場に忍び込んでは段ボールの山にダイブした。捺染台に伝わる熱気が、癖のある職人さん達の熱気と混じり合う。蒸し器から噴き出される蒸気が、広いトタンの屋根のその先に広がっていく。
 染めた布にみんなでおがくずをかけていく。洗い場では複数の大人達が水遊びに興じている。父は毎年夏休みなると、僕のために洗い場の大きな水槽に魚を放ってくれた。
 1枚の布が染まっていく風景は当たり前の風景だった。それが当たり前ではないと知るのは随分後のことだ。

認可工場

 工場は1932年葛飾区立石より八王子に移転。それ以来、時代と共に様々な仕事に関わってきた。生まれる前は風呂敷をやっていたし、子供の頃はたくさんのネクタイやセーター、高校生の頃はTシャツだった。時代によって必要な仕事も変わる。
 数多くの有名、無名のデザイナーとも付き合ってきた。ただ、企業にとって厳しい側面もあり、繊維業界の衰退やバブルの崩壊の中で、そんなデザイナーたちとも関われないような時期も続いていた。

『ミントデザインズ』

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 ミントデザインズとの出会いは、工場にとってはちょうど変化の時期だったと思う。人を介して物作りをするのではなく、実際に自ら触れて物を作ることにより本当の発見と決定が出来る。
 実際に立ち会ってもらう。それがうちの提示する条件だ。工場には立ち入らせないという従来の考えではなく、非効率であっても的確な相互理解こそ重要だから。
 その頃から父にとっての仕事は、生活をするためではなく、後人に残すべきメッセージを残すためだった。だからこそ、ブランドを立ち上げたばかりの若い人を受け入れては一緒に仕事をするようになっていった。いろいろな工場に連れて歩いてもいた。
 ミントデザインズは職人に心から愛されている。それは彼らが誰よりも職人を大切にしてくれるからだ。彼らの素晴らしいクリエイションの根底には常に仲間を大切にする姿勢がある。
 後年、父はミントデザインズを称して「彼らはファミリーだから」そう嬉しそうに言っていた。去年10月の彼らの毎日ファッション大賞受賞はそんな父にとって最高のはなむけになったはずだ。
 ミントデザインズや多くの仲間との出会いによって僕は今、物作りの魅力そのものに関わることが出来ている。

『matohu』

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 僕が講演だとかで出かけるカバンの中には、実は本業のシルクスクリーンプリントで染めた物がほとんどない。父が昔やったイッセイミヤケのニットの特殊なぼかし染めだとか、変な手描きの染だとかばかり。ただ、それが基礎の知識や柔軟性を持った技術の基盤になっていると思う。
 蓄積されたそういった技術を生かさせてくれたのはmatohuだった。未熟だった僕に数多くのチャンスを与えてくれた。
 2011年が明けてすぐ、10回に及んだコレクション『慶長の美』の展示が行われた。そこに並べられた長着の1枚1枚、そのひとつひとつに確かな想いが蘇る。関わった1枚の布やそのアイデアがランウェイを歩いてくる。ショーの最後を飾る。寒い指先も滴り落ちる汗も、失敗も成功も。

『kawala』

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 去年の夏、僕らは富士山の頂上にいた。kawalaの2人は大きなテントを運んだ。特殊な染めによって、日光に当たると柄が浮き上がる。それを頂上で日の出と共に動画を撮る予定だった。日は出ず、激しい嵐で死ぬ思いをするなんて思っていなかった。そして愚かにも、みんな登る前から疲れすぎていた。
 自分が今、シルクスクリーンを刷ることが出来るようになったのは、彼らのお陰だ。僕はkawalaの生地を何度も何度も失敗した。僕がそう言うと、「いつ失敗したんだっけ」そう返してくれる。僕は色作りを担当していて、刷る職人というのは本来違う。でも、刷らしてくれた。そのお陰で今の自分がある。
 デザイナーである山本さんの過去は壮絶ですごい。そんな彼は花粉症新薬の治験者になって手にした30万円のほとんどを新柄の製版に使ってしまった。飯が食えないよと言いながら。今時、そんな姿勢で物作りをする奴なんていない。そして、それ以来花粉症が悪化したことも間違いない。確かに物作りに命を注いでいる。そんな彼らのデザインに父はまれに見る大絶賛だった。そして、同い年の彼とは悪ふざけの時も真剣な時も意気投合して、物作りに向かえる。お互いの信頼感が生み出せるものは本当に掛け替えがない。

『JUBILEE』

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 シミズダニさんが多摩美術大学の研究室に勤めていた頃、父は彼にいつも世話になっていた。彼は工場に来ると、全てを自分でやる。色を作り、布を張り、自ら刷る。初めはおぼつかなかったけれど、今は随分手際がよい。熱意ある姿勢はどこまでもまっすぐでかなわない。
 そして、彼は誰よりも、職人の神聖な作業の場を汚さない。彼ほど完璧に後片付けをする人を見たことがない。簡単なようでどの作業より大変なことだ。
 「職人さんに頼むのもいいけど、やはり自分でやりたい。捺染台の上で柄が生まれていく瞬間が好きだ」そう言っていたことが印象に残っている。彼のデザインした布は今もそうした姿勢から生まれている。

『cocca』

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 coccaは国内のプリントテキスタイルをメインとして展開する数少ないお店だ。国内デザイナーによる魅力的なオリジナルテキスタイルが並ぶ。だから、その企画ごとに様々なデザイナーとの出会いがある。今まで会ったどの方も本当に魅力的な方ばかりで、そんな出会いの火花の中から新しい1枚の布が生み出されていく。
 柄があって、イメージに沿えるように、絶妙なところで技術を加えて表現していく。coccaとの仕事もやはりどのブランドともひと味違う。何より、現場で立ち会い共に生み出していくこと、あの場所で初めて会い、その場所を喜んでくれる。そしてその中から布が生まれていく。
 プリントの担当は村山さんで、彼女はいつも自動車に乗って千葉からやってくる。朝9時に着くために随分早く家を出ているはずだ。僕が、毎回遠い所運転大変だよね、というと「私、運転が好きなんです」と、笑顔で言う。
 coccaは作り手が販売員も兼ねているから、作った物がその後どうなっていくかがリアルに伝わってくる。心を躍らせながら物作りをすることの大切さをいつも教えてくれる。

『イイダ傘店』

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 春の予感。梅の花が芽吹く頃になると、イイダ傘店から連絡がある。春の手前になれば毎年、イイダ傘店による日傘の展示受注会がある。今年も電話が鳴りイイダ傘店らしい優しく暖かい柄と色が送られてくる。
 飯田さんは父にとっては多摩美術大学の教え子だった。自分でやるのであれば、場所を貸すと父に言われ初めの頃、製版から、プリントまで工場に来てはやっていた。
 今年も、飯田さんは工場に顔を出してくれた。今期はブランド発足当初に世話になった型屋さんに頼むという。型屋さんに行くというので、バスも微妙だし、タクシーが一番近いかもと伝えたら、「昔は歩いて通っていたなあ」と言う。立派になったねえと僕が嫌みを言う。せっかくだしあの時みたいに歩くかなと言うので、それなら、そこに自転車あるから使っていいよ。と言ったら、喜んで自転車に乗って行った。あの時よりも、少し早く型屋さんに着くようになったかもしれない。
 僕は正直、飯田さんがその型屋さんを選んだことに感動した。値段や簡単さや目先の質だけで仕事をする訳じゃない。昔世話になった。でも、それって物作りを誠実にやるためには一番大事なことなんだ。言うことは簡単だけれど、実際やるのはそんな簡単な事じゃない。
 今まさに、展示会の最中で、今頃関西の方だろうか。へたくそが故に、直しすぎた僕のたくさんの色と、プリントの経緯を会場で展示してくれている。

 今も多くの人が工場に顔を出してくれる。ここで取り上げられなかった仲間も多い。
 物作りの感動を共有したい。だからこそ、今は人を介した仕事を極力しない。デザイナーと直接向き合って作る。それだけのことでいいと思っている。

教室風景

小学校の5人

 僕が技術を学ぶきっかけになったのは奥田塾があったからだ。父から染色を学ぶために、先生を始めとして本当に多くの人がそこに集まった。集まった人達で学び、集まった人達で楽しく物を作る。そして自分はそこで本当に多くを学ぶことが出来た。僕にとってはいつでも原点だ。
 父は、学校に教えに行くようなことは断っていたのだけど、背に腹は代えられないと笑いながら多摩美術大学に教えに行くようになり、僕はその後文化服装学院の話を頂いた。小学校や養護学校にボランティアで教えに行ったりもした。先日行われた、文化服装学院二部服装科有志による展示会。あれも、学生達の自主的な努力によって毎年、パワーアップしながら続けられている。担当の子やそのメンバーには毎年いろいろなことで世話になった。今回の展示会には本当に想いがこもっていて本当にありがたかった。
 春になれば恒例のリソースセンター主催の実習会も行われる。
 人に教えると言うことほど、勉強になるものはない。そして、柔軟なアイデアや新鮮な熱意にいつも触れることが出来る。学校嫌いの僕がこれほど学校に助けられるとは思っていなかった。

 職人である古谷さんのファンは多い。もう75才になるのに僕なんかより体力がある。そして誰よりも優しく器用だ。のこぎりと金槌だけで建物を直すし、工場から蒸気や水が漏れ出ても簡単に修理してしまう。僕が子供の頃はいつも職人の輪の中でお昼はどん兵衛ばかり食べて、僕にどん兵衛は体にいいんだと教えてくれた。すっかり今も洗脳されている。今はやめた沼さんはいつも工場に顔を出してくれるし、長田さんや近藤さんも。職人さんはもっともっとたくさんいた。古谷さんは奥田染工場の最後の職人さんだ。僕のせいできっと今も仕事を辞めることが出来ない。

 奥田染工場には古谷さんを筆頭に素敵な人達ばかり集まる。それは昔から変わらない、そういう人の価値が当たり前だと思って僕は育ったけどそんなことはないってことを、知るのは最近になってから。僕は確かに人に恵まれている。

 先代の社長であった父が亡くなったのは去年も終わりかけた頃だった。僕が子供の頃にはすでに、繊維関係の工場は斜陽産業だった。父や母の大変な思いを見て育った。どんな時も両親はいつも誠実だった。今もやめずに続いているのはそこに集まった仲間のお陰としかいいようがない。ほとんどの工場がもうないのに、うちの工場が今ここにあるのはそれ以外に考えられない。
 自分には本当にたくさんの師匠がいる。染料屋さんに型屋さんに。でもみんな、60や70歳を過ぎている。継ぐものはいない。僕はその意志を少しでも継ぎたい。
 子供の頃、夢はと聞かれてなにもないと答えた。家を継ぐなんてこっぱずかしくて言えるわけもない。両親だけではなく、早くに亡くなった祖父や更に先代の想いもある。何より自分は、それによって育てられた。そんな父の背中もあった。父は工場を自分の代でやめるために、ある時から新しく職人を雇わなくなった。継がなくていいと言っていた父は、同時に今の状況を一番喜んでくれているはずだ。父は継ぐと言うことを、早くに亡くした祖父に伝えられなかったことを後悔していた。父が20歳の頃、祖父は50歳で亡くなった。父の下には6人の兄弟と祖母がいた。おそらく、父は祖父のようになろうと生きたはずだ。だからこそあの人には何もなくても、本当に多くの仲間がいる。そしてよく言っていた、「親父が仲間を大切にしてくれたから亡くなった後、自分はみんなに助けられたんだ」と。
 おそらく、今の自分は当時の父以上に多くの人に助けられている。それはあなたがくれた最高の財産だ。
 意識の遠のく父を前にあなたが続けてきたことを無駄にしないからと、ちゃんと繋げていくからと、そう伝えた。

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    奥田正美
    昭和17年東京生まれ
    東京都立八王子工業高校色染科卒業。
    武蔵大学に進学。
    昭和38年、二代目の父の急死を経て、同大経済原論科在学中から工場の主に。工場では「奥田塾」なるシルクスクリーンプリントや植物染めなどの教室も定期的に開催し、積極的に若い世代との交流を持ち、日本の染色技術の普及に努めた。平成22年11月末、多くの仲間達が見守る中、静かに息を引き取った。
    奥田博伸
    昭和54年生まれ (株)奥田染工場代表取締役
    文化服装学院/文化ファッション大学院大学 非常勤講師
    多摩美術大学/大塚テキスタイルリカレント 特別講師 など
    奥田塾/文化服装学院Ⅱ部実習会

2年前、父が亡くなって半年後に、バタバタとしている中で、
文化学園ファッションリソースセンターの発行するフリーペーパー向けに寄稿した文章です。

このような文章にしたのは父の同級生であった横地さんから頂いた『手紙』(リンク先に掲載しています)が発端です。
横地さんから頂いた手紙は本当に素敵な内容で、自分のこれからにとって本当に大事なものになりました。
(勝手な公開本当に申し訳ありませんでした)
裏でそんなこと言ってたのかこのやろっと思いました。
父にすっかりやられた病院の先生に息子さんに話があるとか。
当時はいろいろな方から経由して大切なメッセージを頂きました。
そんなことも含めた、blog中にある報告云々は向き合うことが出来ず結局放置してしまいました。

初めて外に向けて書いた文章だと思います。
写真はblog向けに一部変更していますが、文章には手を加えていません。
(当時の不勉強さで本当はちょっと変えたい部分もあります…)
プロフィールも当時の物です。
かなり部数を刷ったはずですが、在庫がなくなったようで、ここに転載する許可を頂きました。
当時、こういった機会を頂いたことで、自分の中にはっきりと指針を残すことが出来ました。
短い期間の中で文章の推敲やアドバイスなど的確にしてくださった上田さんを筆頭に、いつも世話になってばかりのスタッフの方々に心より感謝致します。
発行:文化学園ファッションリソースセンター
http://www.bunka.ac.jp/frc/
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