佐野さんの件について思うこと

FACEBOOKにてそれなりの反響があったので、ここに引用します。
またそれも踏まえて自分なりの視点から今回の件をまとめることが出来ればと考えています。
今回の問題は、いろいろな理解不足によって起きている非難だと考えます。
非難の類いを見ていて、一番ミソになるのは、トートバッグの件であり、
トートバッグのコピーのような件がどうして起きるのか。
という、部分を理解されている方が少ないと感じたので、この投稿の一番の目的はその部分でした。
オリンピックのロゴは決してコピーではないと自分は考えます。それについてここでは触れません。専門の方が分析されているのでそれを参考にしてください。

 

佐野さんの一件は、僕らがどれくらい自分の関わらない世界を知らないか。
そして知らないことについてはどれほど残酷になれるかについて考えさせられる。
自分もそれをどこかでやっているのかも知れない。

オリンピックのデザインはどう考えてもパクってないでしょ。

デザインに対していいか悪いかは別の話。ボクは素人なんで、本人がいろいろな意図を持って作ったものだろうとしか思わないです。わからないし。

無責任な人格の否定も別の話。ファンタジーの世界にいる人間ではなく実在するんだから。
はじめから文句言ってるならまだしも、みんなで責めだして、責めやすくなったところをさらに集団で責めるのは、子供のいじめをどうこう言えないわ。

オリンピックのロゴを、トートバッグの件と混同する人がいるけど、
トートバッグの件に関しては、ファッションの世界でも聞く話。
ものすごいタイミングだけども。

それなりのブランドがそれなりのブランドをパクって問題になることがある。
やっすいブランドがパクるのにブランド価値も何もないけど。
ブランド価値を下げる訳に行かないブランドが望んでパクることなんてない。
それでもそういうことが起きる。
部下のせいにっていうけどさ。言ったってその意味がわからないんだから、ちゃんと説明しなければそもそもわからないでしょ。

持ち込まれる素材やデザインを選ぶという立場だったと思うし、
選ぶ側は、持ち込まれたものから選ぶのだろうから、どこかからパクってきたかどうかなんて見抜けない。

パクっておいて、ミスって表現おかしいと言うけど、見抜けなかったミス。社員教育や会社体制のミスなんだよ。
特定の部下の名前出して、こいつのせいだって言っている訳ではなくて、こういう経緯でって言っているだけでしょ。

自分が同じ立場だったら、防げないし、同じように言うと思う。
それしかないし。

ただそれで佐野さんに責任がないかといったら、責任はあるでしょうよ。責任者だから。

あの釈明文はすごく正直に書かかれているものだと感じます。

あともうひとつ、すっごい嫌われる覚悟で言うけども、
一般人はさせておき、デザイナーを肩書きにしている人たちが、こういう状況で、オリンピックのロゴについて、こういう方がいい、ああいう方がいいと言ったり、
プロだとか言うグラフィックデザイナーがすでに誰かがデザインしているものに対して、1時間でやったとか、こんなデザインはとか、よくやれるなと。すごい下品で、こういう人たちとは絶対に仕事したくねえなと思います。

設計されたものに安易に口出すことがそのデザインにどういう結果をもたらすのか、わかっていない奴はプロじゃないでしょ。

全然生み出されるものに向き合ってきていないし、社会の仕組みが持っている歯がゆさや不条理さと戦ってきていない証明だと思う。

あまり賛同は得られないかも知れませんが、僕はボロ工場のおっさんとして、日々物作りと向き合う人たちの中にいて、そう思います

 

この投稿をしたあと、佐野さん個人の問題と言うより、癒着と利権の問題だという意見をひとつではなく頂きました。

そちらが今度の矛先になるのなら、その点についてはっきりする必要があるかと思います。
利権と癒着について、いったい佐野さんにどんな利権や癒着があるのでしょうか。
ちょっと稚拙な陰謀論にも思えるし、僕が知らない世界があるのかも知れません。

佐野さんに200億円の利益があるというデマの源は、尾木ママでした。
それについて、尾木ママは素直にその過ちを認めています。
と、同時に佐野さんが受け取る物は賞金の100万のみだとはっきり書かれています。
http://ameblo.jp/oginaoki/entry-12064403309.html

賞金の100万円て、そんな高いものですかね。それよりもオリンピックのロゴをデザイン出来ると言うことの価値のためにデザイナーは皆、コンペにデザインを送ったのではないでしょうか。
その利権とはどんな利権でしょうか。

そうなると電通の闇だと書いている人がいました。
いや、佐野さん元博報堂だし、となると、博報堂の利権になるみたいです。
乱暴すぎます。

コンペの人間関係が利権となると、この記事ですね。
http://www.akb48matomemory.com/archives/1037002524.html

それについて、FACEBOOKで 柳本浩市さんの投稿文がわかりやすいかと思うので、勝手ながら引用致します。
https://www.facebook.com/koichi.yanagimoto.5/posts/1176134102412461?pnref=story


佐野氏のサントリーの件については無許可使用を本人も認めた事だし、これはこれで断罪されなければならない。ただ、先日のニュース番組で、元ネタと 作品を見せて「似てると思いませんか?」と一般の人に尋ねているのを見て、誘導尋問も甚だしいと思った。メディアであるならば、もっと一般の人に著作権そ のものの仕組みや、どういうものは引用可能でどれは違法かなどをちゃんと説明するべきだ。クソミソ一緒に報道し多くの誤解を招いている。パクリだと主張し ている人の多くがアイコンにネット画像や芸能人なんかの写真を無断使用していたりして、お前が言うな状態。そもそも日本をそれほど貶めたいのだろうか?

そんな炎上ネタのひとつとして今朝飛び込んで来たのがこれ。
こういう構図だけを見て利権にまみれているという人がどれだけいるんだろう?そういう人はリテラシーが無いと言わざるを得ない。陰謀論を間受けする人と何ら変わりない。

コンペに出したか出さなかったかは定かではないけれども、今回のエンブレムコンペにエントリー資格のある人はだいたい知っている。ほとんどの人が仕事での 付き合いは無いけれども、飲みに行ったりプライベートな付き合いのある人ばかりだ。だからこそ真実の人間関係は見えてくる。

そのコンペ資格者・審査員の全体像や個人的な繋がりで見る限り、博報堂を辞めた人間が、博報堂に対しそれほど利権や恩義を持つだろうか?現にサノケンさん は電通のアカウントであるサントリーやトヨタなんかの仕事をしていて、別に博報堂に依存していない。審査委員長の永井氏は日本デザインセンター、細谷氏は ライトパブリシティ、しかも資格がある人間で博報堂出身も別にいない訳では無い。しかもここで取り上げられた構図に当てはまっている審査員は全体の1/3 程度だ。その他の人間関係については何も言及されていない。

売れっ子デザイナーが大企業に起用される事は当り前で、複数でプロジェクトが動く際、1つのプロジェクトに同じような売れっ子メンツが集まるのは必然的な話だ。
むしろどこも同じクリエイターを起用するという問題は企業側が自社やプロジェクトの親和性でなく、知名度でクリエイターを選んでいる事かもしれない。

兄が官僚と言うが、かなり上の人でも個人的な見解では利権でコントロールしている人は見た事が無い。出来てたら相当のヤリ手だし、そんなだったらもっと重要なポストについていてもおかしくない。森さんくらいだったらやりかねないけど。

業界組織図を厳密に描くとしたら、この人とこの人はかなり仲がいいとか、悪いとか構図が全然違うし、仲がいいのだったら、どこの学校、どこの会社出身というよりも、その仲がいい人を審査で推してもおかしくない。

デザインという業界自体が小さいので、どこかで関係者にぶつかってしまうという事は否めないが、むしろ芸能界のように、利権だけで売れるか売れないかが決まってしまう方は誰も指摘しない。

コンペの審査員などを僕も何度かやった事はあるが、議論で意見を衝突させるし、毎回みんな真剣に選定している。オリンピックだったら尚更のはず、最終選考で声の大きい審査員に票が引っ張られる事はあるかもしれないけど、そこにも説得力が伴わなければ単に票は動かない。

さらに長くなりますがもっと、詳しく説明しているのが、
『博報堂が五輪関係で持っているとされる「利権」とやらが一体なんなのか実情を書いておくか』
http://blog.goo.ne.jp/konotawake/e/4489bd61c1aaa1dd31befaa5dc9bff03

そもそも、100万円の賞金のコンペに利権ってなんなんですかね。
よくわからないです。コメントもらってそれがはてなでした。誰か説明して。嫌みではなく。確信をもってそう言ったのだろうから。
今回、安保の時と違って右向きの人も左向きの人も叩いていて、身近な人たちだけがどうにか理解を示しているという状況で。
身近な人たちがフォローするんで、またそれが叩かれる訳ですが。
みんなで利権を守るためになんですかね。
周りの人がと言うことは、状況を理解している人とそうでない人の見解の相違と考える方が素直な気がします。

デザインという物について、FBの投稿でも触れましたが、こんなデザインはというのが出回って、扇のデザインなどこの方がいいじゃんとかありますが、あれいいですよね。
でもね、すっごい雑な言い方をすれば、ただ民衆に媚びたデザインなんですよ。
ここら辺になるともうよりはてなが並んでいくのではないかと。
媚びて何が悪いのかと。皆が喜べばそれでいいじゃんって。
それなら、社会におけるデザインって何だってことになるんですよ。
デザインをしている人間達が悩むのは、理解されるデザインと価値があるからこそ、簡単には理解してもらえないデザインの行き来について何だと。本当に価値がある物ってね。大衆が価値があると簡単に感じる物なのかという問題です。理解していってもらうものの方が大半なのではないかと。

これね、似たようなデザインより、常に新しいデザインをって言って佐野さんのデザインを責めている人とすごく矛盾するんですよ。
扇のデザインでいいならね。新しくないですよ。佐野さんのデザインより全然。
人はね。見慣れた物をいいと理解できるんです。
音楽でも、映画でもそうです。新しい分野の音楽が生まれた時、彼らは評価されたか。後に評価されて歴史に残る人というのは、美術の分野だけではなく科学の世界だって一緒です。
その道の一流の専門職というのはそもそもそういう職業ではなかったのかと。
そして、デザインの社会における役目とは何かであると同時に、デザインの機能とは何かなんですよ。
このロゴいいでしょじゃたいした物ではないんです。
これは長くなるので、この引用をして終わりにします。

FACEBOOKである方が、

『東京オリンピック「扇子なだけにセンスがいいね!」なエンブレムが現れる』
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/21/tokyo-olympic-emblem-sensu_n_8019218.html

について、
「素敵なエンブレムだと。
茂木さんが言うように偉い方が密室で決めるのではなく、応募したい人が応募して、国民投票であれがいいこれがいいとみんなでわいわい言いながら楽しく決めればよかったのかも知れない。
以下省略」
と言うようなことを書かれていて、

大野さんという技術者の方が、そこにコメントを寄せていましたので、
勝手に引用します。ごめんね大野さん。

いや、ここでこんなもの書くところが全然「これから」を意識してなくて、浅はかすぎて嫌です。貶めるつもりはなく、と、書いてるけど、てめえで書いた時点で 見下しているわけで。「みんなで決める」多数決は僕はとても危険だと思います。目先に流されわかりやすいものに流されるのが「多くの民」なわけで、デモで 世の中がひっくりかえらないのもその「多くの民」が変わらないことに原因があるわけでね、「より良いもの」は「みんなで決める」ではなくて、「誰かが先導 する」じゃなくては、イノベーションも起こらないわけだから。

ただ、このエンブレムいいじゃんと言う、この方の意見が間違っているかと言ったら、そんなことはなくてですね。
普段どんな仕事をされているかの違いだと思うんですよ。
一般の意識がどう受け止めるかについてこうなるわけですが、
それ以上に、みんなでわいわいという、この視点はある側面ですごく正しい訳です。

再度、 柳本浩市さんのFBの投稿を引用します。

76年のモントリオール・オリンピックでIOCは破綻した。72年ミュンヘン大会のパレスチナゲリラのオリンピック村占拠→イスラエル選手殺害、オイルショックによる物価高と度重なる宗教・民族闘争による不参加が重なったのが要因だった。

この年84年の招致があったが、LAしか手を挙げなかった。それまでのオリンピックは国の税金を投入してやっていたこともあり、国の負担や政治介入を防ぐために、IOCはアメリカの旅行会社を経営するピーター・ユベロスをヘッドハンティングした。

ユベロスは84年のLA大会でエンターテイメント性を高くし、税金以外に放映権、オフィシャルスポンサー権を推進し、代理店に多くの運営を任せるように なった。競技場は32年のLA大会で使ったものをリノベし、極力コストをかけず、聖火ランナーまで参加料を取るという徹底ぶりで、歴史的な黒字になった。 これ以降LAモデルをベースにオリンピックは運営されている。

僕は次にIOCの破綻が来るとしたら、このLAモデルの効力が無くなる時だと思っている。五輪エンブレムなどを商業化によって利権でガチガチにしてしまった故の民衆との温度差による不信任だ。現に20年のオリンピック騒動は根底にこれが流れていると感じている。

オリンピックがこれだけ騒動になっている要因の根底には、やはり国民の信任を得ていないことがある。

まず、オリンピック自体が限られた既得権者のためのものに見えていて、国民には何のメリットも無いのではと思われている点。
もう一つは、クリエイターがオリンピックおよび利権者そのものをクライアントとしており、その先に国民が居る事を無視している点。(B2B2CのはずがB2Bになっている)謝罪会見を見ても、会見側の一方的な論理になっている。
これはオリンピックに限らず、クリエイターの不理解度が世に晒された1つの歴史的ポイントになるかもしれない。

要は国民が置いてけぼりになっている事だ。そのストレスの捌け口としてオリンピックは炎上ネタとして利用されている。
もちろん、あること無いこと一緒にしてイジメのように攻撃するのはいかがなものかと思うが、現象には必ず理由がある。そこを知る必要はあるだろう。

そこで、64年はどうだったかを振り返ると、高度成長期ではあったが、まだまだ途上状態で、充当な予算が組めなかった。その資金不足を補うために、国民か らカンパを募った。募金付き切手などを始め、メーカーや地銀、商店街に至るまで、五輪エンブレム付きの商品やノベルティを制作し、収益の一部を寄付した。

オープンとかシェアとか言われている現代は利権でガチガチなのに50年前の方がよっぽどオープンやシェアに溢れていた。だからこそ、オリンピックは国民の 中で身近な存在になり自分事になっていったのだろう。今足りないのは国民に自分事になってもらう事だ。リンクしたおでんのPOP。これこそが国民の自分事 なのだと思う。これをパクリというのは知財権関係の人ばかりで、民衆は逆に盛上がっている。パクリとパロディの差は心情の共有ができるかどうかなのだ。

今一度、組織委員会はオリンピックによって国民にどのようなメリットがあるかをはっきりと示した方がいいと思う。信任を増やす事こそ今求められている事で、これをやらない限り、オリンピックに関わるすべての物事は炎上し続けるだろう。

あとなんでこんなに集中砲火を浴びているのかなんですけど、
佐野さんを無闇にいじめることにどんな陰謀があるかなんですよ。
彼らの理論に照らせばそうなるんです。
こんなに強大になったエネルギーには陰謀がある。
ロゴに関しては上記の通りだし、

ここからは推測です。
佐野さんの非難をしている人達もそうですが、推測で物を書くと大概ろくなことがありません。

陰謀論の駄目なところは、根拠もなくどこかにすごい力があって何ですけど、(暗闇を怖がる子供と一緒です)
どうしてそうなるか、そうするか、どんなに複雑そうに見えることも、個人の行動ってすごく単純な物だと思うんですよ。
暗闇の先に想像もつかない闇なんてないんです。明かりを付けたら、ありきたりの物があるだけなんです。

先日、売り込みの電話があって、すっごい粗雑な話し方で、相手が怒鳴りだしたんですよ。
売り込むのに、僕に切れている訳です。
何の用件ですか? って聞いているだけなのに。
これ、僕、何が目的なのかわからなくて、どういうことだって思いましたよ。斬新な電話だって。そんな怒鳴っちゃってどんなメリットがあるんだって。
調べたら、逆ギレ系勧誘電話ってやつらしく、相手に恐怖を与えることで売るという手法があるらしいです。
結局は難しい目的ではなく、売ることが目的なんですよ。実際それで買ってしまう人が随分といるらしいです。

今回、佐野さんを非難するサイトの特徴なんですけど、ものすごく情報を都合よく切り取って、物語を再構築している訳です。
で、それを見た人が怒っている。こんな悪い奴だから他にもとさらに喜ぶ。やっぱり悪い奴だと喜ぶ。
SNSの上はそれで大盛り上がりなわけです。
じゃあ誰が得で、極悪人としての佐野さんを作り上げる必要があるのか。
いろいろ不思議で考えたんですけど、もしそれが単純なものならなんですけど
そういう情報発信がアクセスを稼ぐのにすごくいいと言うことなのではないかと。
だって、極悪人作った方が面白いし、平らな情報にしたら今ひとつ面白みに欠けるじゃないですか。
1次ソースまでちゃんと確認して見ている人なんてまれですから。情報のさらに上っ面だけがどうしたって力を持ちやすいんです。
嘘じゃない程度に切り取っていけばいいわけです。
東京オリンピックのロゴ作った人なわけで、すごくいいネタですよ。
だとすると、その情報源って悪意がありますよね。だとすると、悪意のある情報に踊らされる環境に僕らはあると言うことです。
それが、2チャンネルのようなところでデリカシーもなく騒がれるだけならまあいつものことなんですけど、何の価値もないのが価値のある場所ですから。それが日の光の下にまで、ネットの世界も随分変わってきたなあと。すごく個人に直結するものになってきたんだなと。

メディアに関しては、その盛り上がりを放置出来なくなった。
でさ、報道の人なんて、一般人と同じだってことを今回のことで彼らは見事に露呈した訳です。
専門分野ですし、仕方ないんですけど。

と言うのが僕の妄想です。

佐野さんのデザインあれからパクったこれからパクったってやってますけど、ぜひ。
同じだけ、同じ方法論で、佐野さんのデザインをパクっている人たちを並べて欲しいです。
あれだけシンプルで似通った物がなかったらおかしいですよ。
世界をどれだけの広さだと思っているんですか。どれだけの人口がいると思っているんですか。
ベルギーから訴えられている件ですが、
僕はどうしても、槇原敬之さんと松本零士さんの一件を思い出さずにはいられません。
トートバッグについてはすごいタイミングだなと思います。
こんなコピーする人が他もやらないなんて思えないって感情的には思うタイミングなんですよ。
そういう状況なわけです。コピーかもから、コピーしてたあ!!って展開なわけですから。
佐野さんは自分のミスにしろ、すさまじい状況に立たされているんです。
僕がもし同じ状況に立たされたら、運命の神を呪うことぐらいしか出来ないと思います。
一度ぜひ、佐野さんの立場に立って、佐野さんが言っていることをもし本当だったらと想定してみて欲しいです。
言っていることが、本当か嘘か見極めるためには、嘘だったらと同じくらい、本当だったらと言う検討も大事ですから。
理解して貰うってすごく難しいです。
ドラマでそんな状況を見て、悲しく感じさせられたことが僕は何度もあります。
人は、そういう思いをどこかで皆してきて、その状況を本来は知っていると言うことです。
ただ、多くの場合、わからない物に対して、第三者というのはいま浮き上がる感情につけられる理屈を探すだけになってしまうものなのかと。
そして不満がある。その不満の本質がそもそも何かというのはひどく重要です。

 

プロならきっと不条理にだって向き合わなくては行けません。
社会に向けて何かを発信するということにはきっとそういう側面がある。
デザインがデザインとしてより真摯な物であれば、それはなおのことかもしれない。
そして今後、このロゴがどんな方向になろうと、それは世間が選んだ選択です。
プロであるなら、どんな状況になっても、前向きに未来を見据えるべきです。
それが本質的にデザインの価値になりえるはずです。

最後に、感情は価値です。
集中砲火の一番ひどい時に勇気を持って発言された
植原 亮輔さんのFACEBOOKの引用を、もって終わりにします。

本人がパクりじゃないって言ってるんだからパクりじゃないだろうし、ましてや「人を疑う」ということのほうが大きな罪だと思う。(時々起こる不思議な現象であるが、)人を奈落の底に落とそうとする大衆の大きなうねりの中に入り、その歯車の一部になってはいけない。
佐野くんを批判する大衆の皆さん、
想像してください。崖から落ちそうになっている人間に手を差し伸べるではなく、ひとりずつ笑いながら指で押して崖から落とすようなことをしているのです。
面白がってパクりだと言い始めたネットユーザーの「悪魔の囁き」に助長することは決してやってはいけない。
佐野くんの人生を何だと思ってる?
彼の素晴らしい人柄、彼の行ってきた多くの素晴らしい仕事を台無しにする権利は、あなたたちにあるんですか?
ホントは佐野くんと会って話をしてもらいたい。
みんな笑い、幸せな気持ちになる、彼はそんな人間なんです。
トートバックのことでミスはあったかもしれない。
それは長年やってきた仕事の、ごく僅かなこと。それ以外の多くのデザインの仕事で、彼は社会に貢献し、幸せを振りまいてきたんです。
基本的にはデザインは企業から依頼を受けて作り上げていくことがほとんど。だから、我々デザイナーは見えないところで支える仕事をしています。良い仕事をしても、自分が手掛けたことを知られないで終わってしまうことが多いのです。
今、佐野くんは彼がやってきた数多くの素晴らしい仕事を無視され、僅かなミス(人命にかかわらない)をネタに大衆のストレス解消のステージに乗せられています。
みんなで彼を助けてあげませんか?
そして、ひとの悪口を言うくらいなら、自分のやるべき仕事をしましょう。

仕事終わりに今、この文章を書いています。
今回はどうしても黙っていられません。
悲しむべきじゃない人が理不尽に悲しむ世界を想像することがすごく嫌いです。
取り返しのつかないことになって、後悔することが嫌いです。
無名な自分が何かをできるとは思いません。
ただね、僕はね、今の自分の仕事を愛しています。
未来に生まれていくものが本当に素敵なものになっていってほしい。
それが僕が仕事に向き合いながら思う。
ただ一つの願いです。
だから、それがそうでなくなっていくような風潮は絶対に許せないんです。
ものづくりをする人たちはね。
才能ある人たちはね。社会の中に、人と人の間に、人と世界の間に、どこかの誰かがより幸せな世界を手に入れていくそのための、ただ美しいものを生み出したいだけなんですよ。
ただそれだけのはずなんです。
佐野さんのロゴにはきっと、佐野さん自身がグラフィックデザイナーとして仕事してきたその思い以上にね。東京オリンピックの中で生まれる多くの笑顔について、その時代の東京についての思いがたくさん詰まっていると思いますよ。僕はそう信じます。
それを踏まえたうえで、佐野さんのことをひどく言えばいいと思いますよ。

足を運んでみて

前回の「足を運ぶこと」はこちら

ある友人の本に、なくなっていくから、守りたいと書いてあった。
何を言っているんだ。
おまえが作っている量は、守れる量じゃない。
ビジネスはうまくいっているが、技術者を儲けさせるような構造にはならない少量生産を核としているじゃないか。
そのビジネスモデルはそれを言えるような構造じゃない。

勘違い甚だしい、やらせて貰っているんだ。
守るどころの沙汰じゃない。
それぞれの工場に大きな仕事があって、それがあるから、その工場は維持されている。
その維持されている隙間に入れて貰っているだけの話なんだ。
うちの仕事だってその程度のものだ。大きく動いている隙間を生かさせていただいているに過ぎない。
お陰様で物作りが出来ているんだよ。君によって守られているからじゃない。
本当に守る気があるなら、そのビジネスモデルじゃ嘘だってまず気付け。
本当に思うなら、行動に移せ。
お偉い先生になりたくなければだ。

と、今度こそ、本人にちゃんと言おうと思う。
って言いながら、じゃあよろしくと、お願いしたいことがあるのでちょうどいいや。

DSC07126
八王子の外に意識が向いたのは、みやしんの廃業とテキスタイルマルシェという場との出会いが大きかったと思う。
みやしんさんがなくなる時、なくなるのかあーーと思った。
半年後にテキスタイルマルシェに参加させて貰った時、こんなに魅力的に物作りをしている人がいるのかあ。なんて希望なのだ。なんてワクワクするのだ。と、思った。
自分はものすごく世間知らずだった。今さらの話だけれども。

はじめは、何で誰ももっとわかりやすく日本全国にどんな工場があるのかまとめないのだ。
綺麗な情報にしないのだと思った。
聞いたら、どれもやろうとしてうまくいかなかったと聞いた。
どうしてそうならないかは今は何となくわかる。

そんな思いから、いろいろな場所に足を運びたくなった。
はじめは本当に仲間内からだった。
興味は、自分のいる東京近辺の高齢化してしまった身近な世界から広がって、日本のテキスタイル産地についてへと広がっていた。

産地ごとに存在していたものが、だんだん廃業や倒産が増えて、虫穴ばかりになった。
布を生み出すのは、あらゆる段階が存在する。一社だけでまかなうようになっているのはまだ少ない。
虫穴が増えれば、産地外に頼むしかない。
これからの産地はその地域から、日本全国になる。
ならざる終えない。
それほどに、おそらく淘汰されるだろう。
と、聞いた。

日本の産地は10年後には全部なくなると、3年前に言われた。
じゃああと7年か。
身の回りでやめていく会社、年齢も高く仕事が続けられなくなる人、年々、そこにあった景色がなくなるリアリティがたんたんと進んでいる。たぶんそれは布の世界だけの話ではない。
日本という場において、その人しかすでに携わっていない高齢の技術者というのは多い。
すべて守ろうなんて、きっとそれは空論になって、何も生まない。
文化や生活のスタイルが変わるのであれば、ある部分でなくなっていくことは仕方ないこと。ただ、ある部分で仕方なくはないこともあるかもしれない。
大切なことは仕方なくないと思うことがあるとするなら、積極的にそう思う自らが関わるしかないだろうということだ。
たぶんそれは仕事だとするならその人にとって、とても価値のある仕事になってくれるだろう。
守るというのはその程度の小さな世界の話である。
そして守るから、生み出すに。僕らは前に進んでいるのだから。
大きな工場も、個人に近い小さな工場も、文化の積み重ねによってある最新鋭の工場も、古いままで非効率な小さな工場も、誰かに必要とされて確かにそこに存在している。

僕は若造で生意気だから、一番はじめは、もし産地がなくなってしまうとしたら、それを守れる方法はないのか。何か出来ないか。
全国を知りたいという思いはそこからだった。もっと魅力的な日本の物作りは発信出来るはずだと。
先輩たちが引退していく光景に対しての思いが一番だったかもしれない。
でも足を運んで知ったのは、はっきりと自分なんかより素晴らしい、敵わない人たちが、目をキラキラさせながら僕なんかよりもっと本気で今の世の中に向き合っている現実だった。
何かが出来ればなんて、なんて偉そうな考え方だったろう。
未熟者にありがちなあれだ。知らないというのはそういうことだ。

工場見学というのは相手の手を止める。
迷惑な話だ。とってもじゃないけれど気軽には行けない。
それでも、丁寧に対応してくださる方がたくさんいる。

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いろいろな産地や工場の魅力に触れて一番に感じたことは、工場を回る最大の価値は、
どんな物との出会いでもなく、その場にいる人との出会いだった。
この人と出会えた。この人と出会えてよかったという思いだった。
回るたびにそんな素敵だと思える人たちが増えていく。
僕らはそこにある素敵な人が仕事に向き合っていることを知る。
そんな場所からはじめられる物作りの魅力がある。
ましてや、この人の作るものは素晴らしいのだと僕らは言うことが出来る。

どんな機械があって、どんなコストだから頼もうという判断は非常に表面的だ。
同じ機械が並ぶ工場があったとしても、その工場に関わる人たちの顔が心が形になる。
だから、仕上がる物はそれぞれの顔をはっきりと持つ。
機械が作るのではない。
人が、作るために必要な道具を並べて作っている。
そんなことさえ知らないプロも多い。
この世の人の使う物のすべてに必ず人が関わっていることに自覚的になることはきっと僕らを幸せにする。

この人と作りたい、もしそう思えることがあるとしたら、それほどにエネルギーを込められる方法はないかもしれない。
物作りはコミュニケーションから始まる。
お互いがお互いを知るためには時間が掛かる。
お互いの方法を生み出していくことだって時間が掛かる。
ただ、消費しあうその場限りの関係よりも、育っていく関係こそが希望に思う。
その1歩1歩に確かな価値がある。
人が関わることで、僕らは関わらなかったらたどり着けなかった場所へ行けるはずなのだ。

出会いがなければ生まれてこなかったものは数知れない。
何かが、誰かが欠けたらそうはならなかった。そういう人の繋がりが、出会いがこの今を生み出している。

自分もそろそろ何かをはじめる準備をしよう。
いつまでも勉強していたって、行動しなければ意味もないのだから。
それに今は、たくさんの協力してくれる素敵な仲間がいるのだから。たぶん。

あっ、写真は、去年訪れた尾道水道の朝と夜だよ。

足を運ぶこと

最近ずっと、いろいろなデザイナーを連れて、全国の繊維産地をお邪魔している。
3泊4日のこともあるし、日帰りのこともあるし。
昨年末は岡山、倉敷、尾道、今治へと回ってきた。
今治のタオル、岡山から広島にかけては、ジーンズに帆布。その他にも様々な工場がある。
その前に時間をかけて行った時は、一宮と西脇、一宮はウール生地、西脇は先染めの綿織物の工場にお邪魔した。
その前は京都に丹後。新潟に富士吉田、花巻に浜松…
本当に様々な方にお世話になってきた。

そんな産地巡りをわざわざ1ヶ月、2ヶ月もかけてセッティングすることは、自分なりに大いなる目的があるのだけど、それを伝えるのは難しい。
とにかく自分が行きたい。
ひとりで行くというのも気が引けるので、みんなに声をかけて行くか行かないか聞く。
せっかく行くならなるべくまとめて行った方がいい。
見学なんて、相手先の仕事の邪魔になるのだし。
なぜそんなにみんなに声をかけるんだと言われるけれど、仕事の邪魔になるなら、なるべく1度で済ませたいという。
行きたい人がいるなら、一緒に行こうよって言う。
onomichi

ちなみにそんな様子を上げてくれている人もいるので一部。

secoriさん『尾州訪問』
http://tokyo-mbfashionweek.com/jp/curators/blog/6370/
大小さん 『今までで買った一番高い服ってどんなの?』
http://people.zozo.jp/taisyou/diary/4164835

足を運ぶと、そんなこんなで、会社内の人たちですか?
いったい、何の集まりですかと聞かれる。
それはそうだ、何の集団だか自分でも分からない。
東京だから素敵なデザイナーと出会うことが多いのでと言っても
工場に関わっていないデザイナーまで混ざっている。そもそもデザイナーだけでもないし。
じゃあ、大学の集まりですかとなる。
そういうのが仕事かと言ったら、僕は建物的にも経済的にも今すぐ潰れそうなおんぼろ弱小工場をどうにかこうにか維持している身でしかないわけで。

10年前、先代はうちの工場に若い人が来ると、他の工場を紹介して、ついでに他のプリント工場を紹介して、
自分はもうあまり仕事をする気はないので、全部に断られたらやるから言いなさいと言った。
そういうのいいなと背中を見ながら思った。
だから、僕の人との関わりにとって、そんな姿勢はとても大切なことのひとつだったりする。

それで先代は今度は、工場で仕事をするとなれば、本人たちが現場に来なければ絶対にやらないと言った。
工場からすれば、来られるのは面倒なのだけど、大切なことはたぶんそんなことではなかった。
はっきりと先代の経験としたら、現場を知って仕事することが、その経験や感覚がこれからブランドを立ち上げる若い人たちにとって非常に大事なこと。リアリティの無自覚な欠如が現代社会においての不幸だと言うことについて。物質的に満たされることの犠牲になっているかについて。知らないことは人をどれほど傲慢にするかについて。
逆に言えばその当時、特におざなりにされていた部分だという明確な意識があったのだと思う。
デザインと現場が離れて出来るものというのは非常に紙面的だし、精度が落ちる。
それで済めば済むという仕事になってしまいがちだ。
そこにモノづくりの魅力や本来の生命力があるかと言ったら、それはちょっと違う。
効率的な工業生産が、効率的であればいいのかといったら、その上で出来る次元がある。
多くの人は、商業的である事以外に大切な物を持っている。それはある種の危機感だ。
美しい仕事は整理と構築から育てられた合理性による。
構築された物の上に乗るだけでは、駄目なんだ。
世の中が進むなら、大切なはずなのに疎かにされている部分を整備する必要がある。
だから想像の不足が必要なのではなく、リアリティが必要なのだ。

見て、感じて、知る世界が物事の精度や質を上げる。
知らないことを知らないことには気付かないものだ。
それでいいでする仕事に前進はない。
知らない方がいいなどというのは、怠惰な人間が仕事をさぼる口実に過ぎない。
気付かない方がいいことなどない。気付いた上でどうするかが大事なのだ。
これがいいのだ、それなのに足りないんだという視点を捨てたら前に進まない。
留まろうとする、その一歩も二歩もその先に世界は広がっているのだ。
大切に思うものについて、見て見ぬふりをする方が楽だから、見えないふりをして、現状に留まる。
それでは、一生のうちで仕事という大きな時間をかける、役割の上に立つ意味がないと感じてしまう。
kurashiki

これからのものづくりを考えたとき、一番はじめにしたかったこと。
生まれ育ったこの世界を知ること。
そして身の回りにいるデザイナー達とともに、物作りの質を上げていくこと。
そしてそれが個々において非常に純粋な追求であり、ハッピーなものであって欲しいという願い。
惰性で仕事するのではなく、可能性に向き合うこと。
現状で何が出来ていて、何が出来ていないのか。そして、何をする必要があるのか。
この業界に身を置いた時、その視点を明確にしないでデザインや製品を生み出していることが、あまりに罪深いように感じてしまった。
テキスタイルデザインと言って、どれほどの物が本当にしっかりと生み出されているのか。
どれほどのものが可能性と戦っているだろうか。
肩書きだけの仕事では仕方がない。
謙虚さのないデザイナーの作る物は表面的な世界を脱することが出来ない。
なぜなら、この仕事において他人が関わらず生み出される物などないからだ。
分散した技術の粒子を形にするためには、その点が見えなければいけない。
その点がどれほど細かく明確に見えるか。
感覚を研ぎ澄ませ、見抜かなければいけないのだ。
布は生き物だという。
その幾重にも変わる表情を見抜いてはじめて、そこに必然性と生命が宿る。
存在の美しさとはそういう物ではないだろうか。

展示会で僕らはたくさんの並べられた布を見る。
そこだけを見て、どんな価値を知ることが、どんな価値に気づくことが出来るか。それはとっても難しい。
埋もれてしまうと言うのはそのことについてだ。
それでも、そこからいいものを見抜くという話はあくまで一面的な話だ。
生まれた場所を知り、その作り手を知り、その土地の空気を知る。
生まれてくることへのリアリティが、僕らのたいしたことのない目でも、その存在に対して焦点を合わさせてくれる。足を運んではっきりそのことを実感した。
そのものが持っているエネルギーを知れたら、自分のクリエーションに焦点が合った形で生かすことが出来る。
工場のある風景で育った僕にとって、それがとても大切なことなだけかも知れないけれど。
それでも、誰かがそこで生きているって、とっても好きなことなのよね。

4月の一宮から西脇への産地巡り。
あるブランドの10月の展示会を訪れたら、訪ねた道が、服になっていた。
あの場所で出会った布、次の場所で出会った布というように。
すごく忙しい人なのに、僕に付き合ってそのとき長い時間を空けてくれた。
一緒に回った時間の記憶をたどるようにそれは形になっていた。
そしてどれも、その布の欠点を消して、長所を生かすように作られている。
布が窮屈そうでもなく、疲れた顔でもなく、すっかり笑顔でそこに存在している。
セッティングししてよかった。なんて形で返してくれるんだろうと思った。

小さなはじまりが、いつか確かな形に結びついてくれるように。
結局はただ、工場見学しているだけなのだけども。
それでも、ちっぽけな自分は日本の物作りの魅力的な未来に憧れているのです。

そんなこんなで、久々にブログ更新していきます。
次のタイトルはきっとこの続き、「足を運んでみて」です。