僕らには野心があって

世界征服だとかそんなくだらない事に近い物を抱えていて

 

人にはそれぞれ役目があって

20歳頃の自分探しらしき物の迷走のうちに

足元でずっと踏みつけていた物の存在に気付いたりして

 

これをしなければ行けないんだ

と言うことの感受性を育てるために

それでも迷走を繰り返すし

過ちを繰り返す。

 

それで

ガラクタが足元に積まれていって

そのうえに乗るから

ちょっとだけ塀の向こうが見えるようになったりする。

 

それでちょっとだけ誇らしげになって

 

2月3月ともなれば

卒業の季節で、4月にもなればページは真っ白になってまたはじまる。

落書きだらけで埋め尽くされたノートを一冊、また本棚に並べる。

 

ノートを新調するたびに、

ちょっとだけ器用になっている自分がいて、

ちょっとだけつまらなくなっている自分がいる。

 

歳を取ることで

枯れていく生き方があって

 

歳を取ることで

磨かれて洗練されていく生き方がある。

 

つまらない自分を変えてくれるのは

出会いってやつだと思うんだ。

 

自分なんてもしかするとどこにもいないのかも知れない。

この自分らしき物は、今まで出会ってきた人の総体なだけな気がする。

その全部が僕を生き生きとさせるし

何かやらなければ行けないことについて駆り立てる。

 

だから幸せだとするなら、素敵な毎日だとするなら

それは全部、出会ってきた人に恵まれてきたからに違いないし

自分がと言うことにどれほどの価値があるんだということになる。

 

自分というのはきっと器に過ぎない。

ひとつひとつの出会いが、生き生きと跳び跳ねてくれる器であるなら

それでいい。

自分が管理しなくちゃ行けないのはきっとそれぐらいの簡単なものなんだ。

 

歳を取る事がもし枯れてしまうだけだというなら、

きっとその人は、器の底に穴が空いてしまっているのだと思う。

器の素材はきっと感謝ってやつで出来ている。

 

尊敬するものに報いること。

愚かなものに抗うこと。

 

出会ってきた総体がここにあるだけなんだ。

 

だから役目というのがあるなら

そうして様々な出会いを重ねてきた今について

少しでも、誠実な自分でいられるようにすることなのだと思う。

 

 

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