さばのみりん干し

行きつけの酒屋さんがあって、年末の忘年会の準備のため足を運んだ。
そこにはお酒だけではなく、美味しいものが隠してあって、
何かある? と聞くとこれが美味しいんだよと出してくれる。
だいたいにしてそれらは驚くほど美味しい。

今回はさばのみりん干しだった。
特別に取り寄せて、利益がないから、日本酒とは別の会計になる。
そういう本当に美味しいものの味を知らないで生きている人はたくさんいる気がする。
ぼくは少なからず知らなかった。
今の世の中は偽物の時代だと思う。それらしきもので誤魔化されている。
それがいいか悪いかはまた別の問題だが、ものが溢れる豊さの偽装はそんなところにある気がする。

何でもないみりん干しだ。
そこらへんに便利にあるお店で売っているものは適度に美味しいか、たいして美味くないかどっちかだ。
でもこの感動するほどに美味いみりん干し、きっとただ正直に当たり前に、作っているに違いない。
いつの間にかこの当たり前の味を忘れてしまっているものが世の中にはたくさんある気がした。

先日、インテリアの歴史を聞いたのだが、低価格化がデザインの低下を招いているらしい。
売値が先にあって削れる手間はすべてそぎ落として行く。
その結果、多様性はなくなり同質化を招いているらしい。

それが時代に取り残されるだけだと罵られても構わない、当たり前のことを当たり前にする、
さばのみりん干しを頬張りながら、そんなことの大切さを噛み締めるのだった。
 

運命

それは一本道なのか。
それともいくつにも分かれているのか。

もしスーパーコンピュータがあって、この世界と同じ世界がまるまるコピーできて、
その世界を早回しできたら、一寸の狂いもない未来を見ることが出来るのだろうかと、
思ってみたりする。
それとも、仮想世界が出来るだけで、そのコンピュータごとに世界は変化していってしまうのだろうか。

大きな分かれ道に立ったとき、どの未来が正解なんだろうと悩む。

あるはずだった未来を僕は愚かゆえに失う。
それも運命だろうか。
いったい全体、僕の心は運命に逆らえるんだろうか。
それとも、正しく従えるのだろうか。
考えるというのは、流れのひとつなのか、それとも結論は電卓を打つようにはじめから決まっているのか。
欲深い僕は、どうか道を踏み外したくないと願い、
どうかこの判断が正しくあって欲しいと願う。
僕にとって、運命を探ることは、正しさの正体を探ることらしい。

大きな分かれ道に立って、僕はそう悩むけれど、
本当はこの一瞬一瞬も分かれ道で。
それなら、この今を、その前にちゃんと大切に選んでいるんだろうかと思う。

選んでこなかったから、これからも選ばないというけど、
いつも僕らは残された時間の上を生きているに過ぎない。

だから今という今はこんなにも大切なんだ。
やり直すとか、やり直せないとか、そんなことではなくて、
僕らは今を生きている。
出来ないと諦めるより、素敵な未来は、自分から、ちゃんと生み出せるんだと信じたい。
今の判断が明日を変えるんだと信じたい。

正しさの正体の向こうに、今まで出会ったいくつかの奇跡の正体があるんだと信じたい。
そして、いつかそこまでたどり着ければと思う。

何故に

自分が何故に生きているか。
その答えをしっかり答えられるだろうか。

もっと、簡単なことでもいい。
何故にこの学校を選んだのか。
何故にものづくりを続けるのか。
何故にその人が大事なのか。

嘘でも虚飾でもなく、素直に答えることが出来るだろうか。
そしてそれは何物にも揺らがないほど強固な物だろうか。
それとも、すべてがなんとなくだろうか。

成功の成否を分けるのは、運でも知能でも技量でもない。
何故に自分がそうするのか。その思いの強さがすべてだ。
そしてそれが意識的に明確化されているかどうかが問われる。
落ち込んでいるとするなら、何故にを見失っているのかもしれない。
それであるならまずその見失った自分の意志のゆくえを探るべきだろう。
言葉にしなくたっていい、これだというイメージとそれに付随する感情さえあればいい。
そしてそれは様々な物への感謝の気持ちから、きっとはじまる。

自分が何故にそれに立ち向かうのか。自分の中ではっきりさせる。
それさえあればどんなに辛い状況でも乗り越え、最後までやり切ることが出来る。

ぼくは何故に生きているんだろう。
いったい僕に何ができるんだろう。
そう言った思いにいつでも誠実でありたい。
 

素直

成人を迎える頃、僕の願いは透明になりたいだった。
透明人間とかではなくて、透き通るような心の自分を願っていた。
あの頃の僕は、自分の中にある汚い物がすべて嫌だった。

先日、僕の目の前にとても素直な人がいて、ああ何だか透明感があって素敵だなと思った。
素直だと言うことは、自分自身に透明感をもたらす最良の手段なんだと思った。
透き通るって言うのはああいうことなんだな。

もし他人に対しても、自分に対しても、素直だったら、曇りガラスを透してみていた世界が、透明なガラスを透した世界に変わる気がする。
そしていずれ、透明なガラスは境界を失い、晴れ渡る空と同じ、隔たりのない、ただの空気にきっと変わる。

心が光りをもし放つのであれば、屈折もせず、跳ね返されもせず、ただそれは優しく広がって、優しく世界を照らす気がする。
暗闇さえも認め、きっと光りが優しく包む。

その世界は、きっととても温かい。
その世界に、幼い頃に覚えたある種の懐かしさを感じるのは気のせいだろうか。

素直な自分をちゃんと知っているのか。
素直ではない自分をちゃんと知っているのか。
あんなに素直で透明で、きらきらなんか光れない僕は
まずそこからなのだと思う。